分子生物学との出会い
1962年に東京大学の理科I類に入学。高校の理科は化学・物理・地学で、生物だけはまったく無縁。父もけっして医者になれとは言いませんでした。父は水俣病の原因が有機水銀であることを突き止めた最初の一人で、脳に興味を持っていました。偶然いくつもの公害事件に遭遇し、農学部や理学部、工学部の学者を集めて班を作っていた。そんな姿をみて、学者に関心を持った…でもこれは後から考えた理由かな。大学に入れば何か見えてくるだろうというのが本当のところですね。みんなそんなもんじゃないんですか(笑)。幾何が好きだったから建築にも興味があったしね。図面ひけますよ。今でも機能的で美しい建物を見て、建築家の思考を辿るのはとても好きです。
分子生物学との出会いは1年生の秋の駒場祭。学祭で駒場寮が開放され、人がどやどや入ってくる。うるさくて眠れなかったので、静かなところでちょっと居眠りをしようかなと思って、講演会に行ったら、たまたま江上不二夫先生の「遺伝暗号」と今堀和友先生の「二重らせん」だったのです。居眠りのために入ったのだけれど、面白くて夢中で聞きました。生きものの背後に情報があり、それをDNAという物質が担っていて、構造が暗号で書かれていることがわかった瞬間です。生物学は知らず幾何好きだったことがこの感動を呼んだのだと思います。早速、磯晃二郎先生の駒場ゼミナールに出て分子生物学を勉強しはじめました。もう、目から鱗が落ちる感じ。新しい学問、分子生物学に進むべきか、もともと考えていた建築や天文学に進むか悩みました。大学2年生の時、学会に出席する父についてイギリスに行く機会があり、ヨーロッパ旅行で寄った医学部のマッカルパイン先生に分子生物学に興味があると言ったら、それは素晴らしい、分子生物学はこれから科学の中心になるだろうと言われたのです。それで少しはずみがついて、何も知らない分子生物学に進むなら1年間きちっと勉強しようと思い、専門課程への進学選択は自主的に留年しました。頭を生物寄りにしたんです。最初は理学部生化学の3号館で安藤鋭郎先生につき、井上貞子さんに半年間みっちり鍛えられました。DNAに非特異的に結合するタンパク質プロタミンを研究していた。プロタミンがDNAを調節して細胞の分化に働いているのではないかという話を聞いて興味を持ったのです。分子生物学の初期時代の貴重な体験ができました。修士では、応用微生物学研究所で、形質転換の研究をしたのですが、学生運動がきわめて盛んな時代で、じっくり研究という雰囲気ではなくなった。研究を続けたかったので、博士課程は九州大学で教授になられたばかりの関口睦夫先生の研究室に編入学しました。69年です。
モデル生物以外に広げる実験システムの確立
大腸菌ファージを用いたDNA修復の研究をしていましたが、とても悩んでいました。新しい分子生物学を展開したい。当時九大の桑原万寿太郎先生の影響を受けて、動物の行動を分子で解明したいなどと思っていました。近くの研究室にいた松原謙一さんが相談相手になってくれて、分子生物学は終わったと過激に未来の生物学の口火を切られた渡辺格先生を紹介してくれたのです。
格さんからは、材料を日本独自のものにすることで、輸入の学問から日本らしい研究へとつなげ、新しい展開ができるのではないかと熱を吹き込まれました。そこで、カイコで分子生物学の実験系がうまくいくか調べたところ、人工飼料の開発も試みられており、できそうだと思って、まずカイコのウイルス病を研究している鮎沢啓夫先生(当時:九州大学農学部)に紹介してもらい、カイコの扱いの手ほどきを受けました。カイコのマユは幼虫が首ふりをして作る。マユの形の変異体を研究して、行動と遺伝子を繋いでみようと思いました。マユ作りの変異体は球形や俵型などの他、胴の部分が薄い「胴切れ」、両端や、片端に穴が開くものなど遺伝的に12パターンくらいに分類でき、その変異が遺伝することを確認しました。これはおもしろいと、カイコに取り組む決心をしました。しかし大量のカイコを卵から飼育するのはなかなか難しい。そこで、カイコの飼育のプロは農家だと聞き、まずは甘木市の農事試験場に1ヵ月泊まり込んで飼育を習ったところ、桑で育てたカイコは、人工飼料で育てたものと大きさが違うのです。人工飼料は諦めました。こうやって、カイコのイロハを叩き込んでから、渡辺研に移ったのです。酵母を餌とするショウジョウバエに比べると、桑に依存するので、やっぱり飼育環境が一定にならない。それを何とかしようと慶応のキャンパス内に空き地があれば桑の木を植えました(笑)。今はなくなりましたが、病院内に桑畑が出来たりして楽しかったですよ。
まず正常なカイコのマユ作り行動と変異体の行動を丁寧に観察しました。正常のカイコは首を8の字に振ってマユを作るのですが、変異体でも同じように首を振る。ターンの仕方が違うのでしょうか、できるマユはまん中部分ができなかったりします。結局、行動の定量化は難しかったのですが、これと平行して、カイコの発生運命予定図を作りました。1930年代に日本人がカイコのモザイク卵を開発していたので、それを再発見してカイコの発生運命予定図を完成させました。そして、胚から将来神経になる部分を取り除いて、どこを除くとマユの形がどう変るかという対応関係を丁寧に見ていきました。
この頃、格さんとよく議論しましたね。そして、「カイコもショウジョウバエも、行動の変異体を分離して、その原因を探すと、中枢神経ではなく末梢神経系に変異が見つかるのがほとんど。つまりこの戦略が間違っているのではないか。ヒトで中枢に問題があるとわかっている症例の遺伝子がわかる時代が来るはずだから、その遺伝子をモデル動物で研究し、分子メカニズムを解明する方が早いかもしれない」というのが当時考えていたことです。
モデル動物としてのマウスとの出会い
77年、モザイク卵の関連論文を調べていて、キメラマウスのことを知りました。その年、結婚式に女房がお招きした実験動物中央研究所(実中研)所長の野村達次先生と出会いました。野村先生は実験動物づくりに分子生物学を取り入れなければならないと思っていらしたところで、キメラマウスに強く惹かれている僕と出会ったのです。そこで野村先生に頼まれて、ご自宅に分子生物学の講義をしに行くようになりました。先生は動物実験とは人の治療に役立てなければ意味がないと考えていらした。ところが、当時の実験動物は症状はヒトの病気と似ていても、原因がヒトとは違うことが圧倒的に多かった。これでは動物の病気の治療に役に立っても、ヒトの治療には役立ちません。実験動物とは症状がたとえ違っていても原因がヒトの病気と同じでなければならない。それが、ヒト疾患モデルなのです。ヒト疾患モデルというのは、症状の類似性から探すのではなく、原因を同一にしたものを作らなければならない。そのコンセプトが何時間も野村先生と話していたら明確になった。それを踏まえた上で、キメラマウスがどのようにヒトの病気の診断に役立つのか、さらに話し合いました。例えば、正常のマウスと筋ジストロフィーのマウスでキメラを作り、筋肉と神経の連結部分を観察する。その時、どちらのマウスの細胞が筋肉と神経に分布しているかを調べれば、筋ジストロフィーの原因特定に役立つ訳です。そうやって、シバラ-マウス(激しく震える病気)と正常マウス、またヌードマウスと正常マウスとでキメラマウスをつくる提案をし、実中研で始めました。それがマウスとの出会いです。モザイクカイコの研究を続けながら、夜はキメラマウスとつき合う日々が続きました。79年には行政改革によって各県にあった蚕糸試験場がなくなり、筑波の生物資源研究所に一括されたのです。時代ですね。桑が手に入らなくなり、カイコの研究は難しくなった。マウスでの新しい系の確立に魅力を感じていたので、思いきってマウスの発生工学をやってみようと思いました。ヒト疾患モデルは、探すのではなく、作る時代になると強く思っていたからです。実中研に発生工学研究室を作って頂いて、東海大学の助教授と兼務しながら取り組みはじめました。
遺伝子工学とマウスの出会い
80年になると、マウス胚を体外で培養し、遺伝子操作ができる可能性が見えてきました。そんな時、アメリカのジャクソン研究所のカール・イルメンゼー博士とピーター・ホッペ博士が、マウスで核移植に成功したと言う論文を『Cell』に発表しました。マウスのクローンづくりです。哺乳類では体内に胚があり、カエルや昆虫など卵を産む生物とは違って胚操作は難しい。遺伝子の機能を細胞ではなく個体で観察するには、胚の体外培養技術や核移植が不可欠なのです。だから多くの研究者が狙っていたところへの発表ですから反響は大きかった。
僕はヒトを生物学の基本原理から理解したいと思ってきたし今でもそう思っています。だから、まだ技術が確立していない時は、まず行動などの高次の生理機能の観察にカイコで取り組んでいたわけですが、いよいよヒトのモデル動物として遺伝子を操作したトランスジェニックマウスを研究する時期が到来したと感じました。カイコの時の経験から、本格的に研究するにはマウスの飼育管理システムや実験技術を正確に学ぶ必要があると強く思っていたところ、幸い、ジャクソン研究所に訪問研究員として留学でき、ピータ・ホッペ博士の下で2年間研究し、トレーニングを受ける機会を得ました。この時、イルメンゼー博士のデータが捏造であるという問題が起き、僕はその実験の追試をしたけれど、やっぱりうまくいかない。当時スイスに移って研究していたインメルゼー博士に対しヨーロッパでも調査が行われましたが、結論は灰色のままのようです。結局彼は研究の世界から去りました。科学は、科学者が作りあげるものです。そこには競争もあれば確執もある。名誉や金銭の誘惑もある。ですから、人格が問われることも科学の一つの側面だなと痛感した出来事でした。
発生工学を本格的に稼動させる
帰国後、実中研の横山峯介君とともに、トランスジェニックマウスを確実に作成し供給できるシステムに取り組みました。今では当然なことも当時はとても大変。卵管から取り出した胚を体外で培養するには、培養時の水やガスという基本が問題になるのです。ジャクソン研究所ではガスとして二酸化炭素5%・酸素5%・窒素90%を使っています。二酸化炭素5%・空気95%のインキュベーターとそれほど大きな違いはないと思われがちです。しかし、子宮は嫌気的だから、酸素は5%よりわずかに多くても問題になるかもしれないのです。だから空気は使いたくない。僕らはお金がかかってもジャクソンの割合を守りました。水もmilliQ(不純物をフィルターなどで除いた実験用の水)なんて便利なものはありませんから、金属を取り除くためにキレート剤などを入れるなどさまざまな工夫を重ねました。その時作った培養液は今では日本のスタンダードです。
トランスジェニックマウスを作るには、卵管から取り出した受精卵にDNAを注入した後、再び子宮に戻し、その胚が発生しなければなりません。胚を体外に取り出してDNAを入れずに培養するだけでもその出生率は当時50%くらいとされていました。横山君は腕がよく、70%。この値を100%にしないと、生まれなかった場合、導入した遺伝子が悪いのか、技術が未熟なのかわからないでしょう。何百個もの胚を使いましたよ。精度を上げるために。ガラス管を刺す角度を分度器で測って一定にするとか、実験のスピードを短縮するとか。3ヶ月目かな?100%になったのは。12個戻したら12個とも生まれたのです。これで技術上のスタンダードが決まって、導入遺伝子の影響だけが個体に現れるようになったので、やっとスタート地点です。技術開発ってしんどいものですよ。100回試して1回成功すれば、成功したと思うのはアマチュアで、99回成功しても1回失敗すれば失敗というのがプロだとつくづく感じました。
激しく震える症状を示す変異体であるシバラーマウスで欠損しているのはミエリン塩基性タンパク質(MBP)遺伝子であることを東海大学の木村穣君が突き止めていましたので、シバラ-マウスにMBP遺伝子を導入して震えなくなるかどうか確かめることにしました。こう書くと簡単ですが、遺伝子工学と発生工学を一貫して行うという一大プロジェクトだったのです。まずは、導入する遺伝子がうまく働くように工夫する遺伝子工学。プロモーターをつけるなど遺伝子構造を7種類準備し、いよいよ発生工学へ。つまりトランスジェニックマウスの作成です。その結果3ヵ月後、7つのうちの1つの遺伝子から震えないマウスができました。これで、確実な技術、適格なマウスの管理などすべてを含めて効率良くトランスジェニックマウスを作る系が確立できたのです。
どうも僕は、ある技術を確立すると、それより良い技術への欲が出るというか、そういう技術が見えてしまうというか。遺伝子の機能を測るのだったら、遺伝子導入によって余分なものを加えるより、本来働いている遺伝子を働かないようにするという引き算の方法が必要だと思い始めたわけです。そこに、本来の遺伝子配列と逆向き(アンチセンス)の配列を加えると、本来の働きが抑制されるという大腸菌での報告が出たのです。そこで正常のマウスに、MBP遺伝子のアンチセンスを導入してみたんです。最初の実験で生まれたマウスが震えた。これには興奮しましたね。僕が震えた。本来の働きを抑制して、それがはたらかなくなった時の行動を示せたのですから。
がんモデル動物に挑戦
一方、野村先生が執着される病気のモデルも気になっていて、癌センターの西村暹先生と共同で、ヒトのがん遺伝子H-rasをマウスに入れました。ヒト遺伝子の機能をマウスで調べられるのかという、これもチャレンジです。
H-rasは点突然変異が起きると、細胞が癌化する遺伝子です。だから当然がんモデル動物をつくろうと思ったら、変異の起きたH-ras遺伝子をマウスに導入しますよね。ところが、それではがんのマウスはできない。まず産まれるものが低く、産まれても奇形だったりする。ほとんどは子宮の中で胎児が癌化していました。そこで、変異が入っていないH-ras遺伝子を導入したところトランスジェニックマウスが産まれました。ところが、それは3ヵ月くらいたつと大量出血して死んじゃうんです。脾臓が癌化して出血していることがわかりました。そしてその細胞の導入ヒトH-ras遺伝子はすべて突然変異を起こしている。マウスもヒトのH-rasとまったく同じアミノ酸配列を持つマウスH-ras遺伝子を持っているのに、そっちはなんともない。またこのマウスの皮膚にヒトの皮膚癌を誘導する物質を塗ると、皮膚癌になることもわかりました。いろいろな発がん物質を投与したら、だいたい3ヵ月以内に癌化する。つまりH-ras遺伝子に変異が起きる発がんテストができる。まさにヒトのがんモデル動物です。このトランスジェニックマウスは世界のスタンダード第1号になりました。野村先生がとても喜んで下さって、お世話になって感謝していた僕としては恩返しができて嬉しかったですね。
標的組換え -ノックアウトマウスへの挑戦-
遺伝子をはたらかなくさせる遺伝子を入れた引き算はできたけれど、次は狙った遺伝子を壊すノックアウトマウスです。これはとても大切な技術だと思ったので、今度は一人でやるのではなく、日本のマウス研究者を集めて、重点領域研究「標的組換え」の領域代表者として、皆で技術を確立しました。
こうして、発生工学を草創期から我が国に根付かせてきましたが、僕の興味は最初からヒトだったのです。カイコを研究していた時に、格さんと議論したって言いましたでしょ。知りたくてもヒトは直接実験できないから、カイコやマウスでのさまざまなシステムは、今に備えて網をはっていたんです。今は統合失調症の原因遺伝子の一つであるドーパミンレセプターやNMDAレセプターの遺伝子操作をして、人の心や脳の働きを、マウスを通して研究できる時代です。やっとやりたいことができるようになった。長かったと言えば長かったけれど、一つ一つの仕事をしている時は、今一番大切なのはこれだと思ってやってきたので、いつの間にかここまできたという気もします。
のびのびと過ごした幼少時代
小さな頃から物事に夢中になるところがりあましたね。父が九州大学医学部の内科医で、福岡生まれです。本当に元旦生まれかと聞かれますが、東海大学の助教授として行ったら、婦長さんが僕を取り上げて下さった方で、証明してくれました(笑)。すぐ疎開して、自然が豊かな、父の郷里である築豊で過ごしました。三輪車で近くを探検したり、女郎グモの巣でセミ取り用の網を作ったり、ドジョウやエビを田圃や川で採ったりと、当時の普通の子供。父は7人の姉がいる末っ子。だから、祖母にはとても可愛がってもらいました。僕も1人っ子なので、心配性の母が、川での魚取りに夢中で溺れそうになった僕に、「採りたいなら、お隣の庭の池でやりなさい」と言った。ピタっと興味がなくなりましたよ。安全志向の禁止は子供の好奇心をなくさせる最適な方法だということです。
小学校に入ってすぐ犬に噛まれ、狂犬病のワクチンの影響で肺に影がでて入院し、1年遅れちゃった。疎開していた田舎から、父が熊本大学に移ったので、そこで再び附属小学校に入り直しました。教育の実験校で、宿題や試験がなく本当にのびのびと楽しく過ごしました。工作と読書と相撲に夢中。ボール紙での工作は、小学生とは思えないできと誉められましたよ。きっちり計算してのり代もちゃんとかいたんです。しゃべらない子で、手を挙げるなんてとんでもない。目立つことは大嫌いで、表彰も運動会もすっぽかしです。わが道を行くちょっと不思議な子供でしたね。自分の結婚披露宴にも出ないんじゃないかと、当時の友達が心配したほどでした。
中学はまた福岡に戻りました。この頃、両親が卓球台を買ってくれたのは、庭で卓球でもして社交性を身に付けなさいということだったのでしょうね。おかげで今に続く友人が大勢できましたし、部活動での水泳にも夢中。熊本時代の友だちの影響で、大変ませた読書家でもありました。ドストエフスキーやカミュ。とにかく乱読しました。ローラ・フェルミの『フェルミの生涯』という原子核物理学者の奥さんが書いた伝記に感動したことをよく覚えています。
子供の頃は「こうなりたい」と決まったものはなく、父の影響や工作好きから、漠然と理系かな程度で来たのですが、高校に入ってすぐ突然勉強に興味がわき、自分で数学、幾何、物理の教科書や問題集に取り組み、1年生の夏休みが終わる頃までに3年生の分まですべてやってしまいました。そう言えば、中学校の時に『化学実験法』(東大の学部の実験書)という本を見つけて、夏休みに毎日こっそり理科室に通って全部実験しちゃったことがあったっけ。やっぱり、昔から興味がわくと、黙々と一人でそれに取り組むタイプだったんですね(笑)。
戦友たち
1992年に九州大学生体防御医学研究所に移り、発生工学研究施設を作りました。さらに4年後に東大医科研に移動し、そこでもヒト疾患モデル研究センターを作り、動物実験施設の建物をすっかり改築しましたが、この施設は、我ながら良いものができたと思っています。この間、実中研からずっと一緒にマウスと格闘してきた仲間の働きはたいしたものです。横山峯介君(現・新潟大学)、中尾和貴君(現・理化学研究所)、中村健司君(現・三菱生命研究所)などまったく道がないところを開拓してくれました。なかでも家内の邦子は、マウスの飼育を手伝ってくれていたのが、そのうち誰よりもマウスをよく観察し、他の人が飼育できない突然変異マウスを餌の工夫で成長させたり、遺伝子解析をしたり、管理運営に精通して、多くの人を指導しどこでも信頼されて、すでに20年近くになります。移るたびに私はともかく邦子には残ってほしいと声がかかったほどです。
現在、ますますマウスがヒト疾患モデルとして生きた試験管になり、場合によっては生きものでは珍しい加速試験の研究に使えることが判ってきました。人が生物学的によりよく判ることこそ私たちの目的ですから、望んでいた方向です。まだ飼育や実験との戦いは続いていますが、それぞれの戦友をもう一度集めて新しい研究の戦いに臨みたいという気持ちは今もあります。
再生医療への警鐘
話は変わりますけれど、最近、再生医療への期待が大きいですよね。騒ぎと言ってもいいかもしれません。でも少し心配しています。確かに、ヒトゲノムは解読されましたし、ゲノムが生きものについての多くの“コト”を決めている、僕もそう思います。でも、僕はあえて再生医療は錬金術だと警鐘を鳴らしているのです。体の中の幹細胞と同じ状態を短期的に体の外でも作れることは確かでしょう。これは遺伝子発現などでわかるから良い。でもその細胞が体の中で発生する時に辿ったプロセスはまだ何もわかっていないに等しい。ですから、外で作った幹細胞が、本当に体の中の幹細胞と同じ運命を辿れるとは言えないし、体に戻した時に同じように働くかどうかわからないのです。それなのに、同じだという前提で再生医療に大きな予算が動いている。1細胞である受精卵からさまざまな細胞が連続してできること、つまり細胞分化って順序立った生きもののプロセスでしょう。理解の基本となることなのに未解決な問題なのです。そこを飛び越えて議論が進んでいる気がします。
全体を前に
僕は「ヒトの心と身体の両方を生物学で理解したい」という途方もない目標に向かって、マウスの発生工学システムを日本で稼動させました。成功を信じて多くの仲間と長い日々を、忍耐強く研究し続けてきたのです。科学は人が実らせる果実ですから、この連帯感こそ貴重です。時間のかかる研究であればあるだけそれが大事です。多くの学者たちからトランスジェニックマウスやノックアウトマウスなどの作成依頼が舞い込み、そのひとつ一つについて、作る意味があるのかどうかを自分で吟味することができたのは大きな収穫でした。技術を担うことによって、そうでなかったら出会うはずもないさまざまな挑戦の一翼を担えたのは幸いだった。目的の違う人たちとも、自分自身の興味と重ねる形で、全体として前進する研究を続けてこられた。研究分野全体を考えた上で、自分の振る舞いを決めてきたつもり。
今は優秀な研究者が集まった研究所の所長という立場だけれど、やはり今までと同様に日本の生物学全体を考えて、そこから基礎生物研究所らしい研究を発展させていきたいと願っています。生物学はこれからだし、とくにポストゲノムシークエンスで語られている展望は、生物学のほんの一部でしかない。ゲノムは根底にあるけれども、謎の多いエピジェネティックスを初め、生きものの持つ可塑性や「しなやかさ」の生物学的な根拠を一緒に学問にしようと考えてくれる若い人をつかまえられるだろうと思っています。 (文責:工藤光子)