生命誌ジャーナル 2006年冬号
Talk ─ 対話を通して ─ :目次
Talk ─ 対話を通して ─
年間テーマ「関わる」
[地域が育む原点] 
町衆がつくる21世紀の文化:大原謙一郎×中村桂子
大原謙一郎(大原美術館 理事長)
中村桂子(JT生命誌研究館館長)
[ 対談を終えて|大原謙一郎 ]
 中村桂子さんは、いつもなにやら勉強していて、その中から人の思いつかないことを思いついて、それをとても見事な日本語で表現される方です。お話をするたびにいろいろの発見や楽しみがあり、快い驚きに心が踊ります。それと同時に、桂子さんは、おどろき上手な人だとも思います。何気なく話をしているとき、突然、あら、ほんと、そうなのねと、ちょっと驚いてくれるのです。へえ、ここで、と思って改めて考えてみると、自分でも気づかないうちに案外良いことを言っていたりします。そういう時、桂子さんという鏡に映る自分の姿を再発見したような気がして嬉しくなります。今回の対談でも、倉敷に出かけてこられた桂子さんにいろいろ驚かされながら、ここぞというところで快く驚いてくれる桂子さんに促され、いろいろ楽しくおしゃべりさせていただき、密度濃いひと時を過ごしました。
大原謙一郎(おおはら・けんいちろう)
1940年生まれ。東京大学経済学部卒、米国エール大学大学院博士課程修了。(株)クラレ副社長、(株)中国銀行副頭取を歴任。現在、財団法人大原美術館理事長を務めるかたわら、倉敷芸術科学大学客員教授として非営利事業経営論を講義。他に倉敷中央病院理事長、倉敷商工会議所会頭、岡山県教育委員、岡山県文化連盟会長などを兼任。著書に『倉敷からはこう見える−世界と文化と地方について−』。地域から世界に向けて文化の発信に取り組む。
1. 家族:歴史の基本単位
2. 歳月と環境が育む変化
3. 眼差しと信頼を基礎に
4. 本当の細部から見えるもの
5. 文化は人の手で作る
6. 白と黒の真ん中で考える
7. 伝える、わかる
8. 21世紀の地球化へ向けて
1. 家族:歴史の基本単位
(中村)
 今年の生命誌のテーマは「関わる」。人と人の関わりはもちろん、歴史の中で社会のいろいろな分野が関わり合いながら文化を育んでいくことの大切さを考えたいのです。科学もその関わりの中での役割を持っているはずなのですが、近年は科学技術文明に押し潰されてしまい、どこか危うい。科学技術文明を否定する気はありませんが、今の文明の方向は落ち着きがなく、生活から本当の美しさや楽しさが無くなりつつあります。21世紀の文化を関わり合いの中で組み立て、日々の暮らしを豊かにすることを考えたいと思って。
(大原)
 文化が消えてしまったら、日常も楽しくないし、世界も美しくないものね。
(中村)
 実は、私は大原美術館※註1が好きなのです。絵画は西欧のものなのだけれど、借り物ではなく倉敷という街と一体になって明治以来の歴史を作ってきていますよね。その背景に企業活動があるわけですし、今学ぶことがあると実感するのです。大原さんは経済を専攻されて、高度成長期の日本、とりわけ中国地方という地域でのご自分の役割を意識してこられた。そこで、地域の経済と文化ということをすいぶん考えていらしたでしょう。それが一つ大事なところです。そして最近は美術館の運営に打ち込んでおられる。地域、経済、文化を総合し、その中で文化に取り組んでいる大原謙一郎さんはとっても輝いて見えます。
(大原)
 ありがとうございます。また後で話しますが、大原美術館は現在を第三創業期として位置づけ、「今を生きる人々にとって意義ある活動」と「他(多)文化理解」を基本に館全体で試行錯誤を繰り返しているんです。
(中村)
 芸術家の立場ではなく、経済人としてのご自身の専門性と経験に則って、美術館の運営という方法で文化に取り組んでいらっしゃる。私は経済はまったくわからない人ですが、やりたい事はとても重なっている気がしてお話しをしてみたいと思いました。
(大原)
 大原美術館と生命誌が重なっていたら嬉しいですね。僕も中村先生には随分昔から色々教えて頂いて。
(中村)
 先生なんて言ったことないくせに(笑)。
(大原)
 姉上とお呼びしています(笑)。僕には3つ上の姉がおり、本当の姉をれい子さんと呼んでいるのに、中村さんには姉上と言っていると怒られます、私は何なのって。
(中村)
 れい子さんは、日本の今の文化をリードしていらっしゃる素敵な方ですよね。
註1:大原美術館
1930年、実業家大原孫三郎により岡山県倉敷市に設立された日本で最初の西洋美術中心の私立美術館。洋画家児島虎次郎が大正年間に収集した西洋近代の絵画、彫刻を中心に、日本近代から現代美術、工芸にいたる幅広いコレクションを形成。教育普及活動や美術講座、ギャラリーコンサートなど多彩な活動を展開中。
大原美術館ホームページ >>
(大原)
 私事ですがこの姉から一番最初に教えられたのが吉屋信子※註2と『ひまわり』や『それいゆ』。
(中村)
 中原淳一※註3。まさに同じ世代です。当時は少女という概念がありました。もちろんそれに対して少年。これって差別などということでなく、子どもから大人になる時になにが必要かを考えさせる大事な切り口かもしれませんね。
(大原)
 それもあって、僕の美術の原体験は中原淳一、文学では『少年倶楽部』の南洋一郎※註4というところなんだけど、その頃のことで姉に1つ感謝しているのは東大の歴史学者、堀越孝一先生が訳された『中世の秋』※註5を勧められたことです。ヘルマン・ヘッセも読めと言われたけれど、こちらは往生して放っておいた(笑)。
(中村)
 なんと幅広いお姉様。家族や兄弟との関わり合いの中で育っていく。そこに共有するものと、自分だけのものができていくのですね。地域、経済、文化という今日のキーワードの原点は家族との関係なのかもしれません。
(大原)
 中でも父親は男の子にとって特別な存在ですよね。
(中村)
 大原孫三郎※註6さんから三代続く伝統の中におられる謙一郎さんは特にそうでしょう。兄弟ってほんとうにいいものなのだけれど。その辺はゆっくりとお聞かせ下さい。
註2:吉屋信子
よしやのぶこ(1896〜1973)
小説家。『少女画報』に連載した『花物語』で人気作家になる。著書に『安宅家の人々』、『鬼火』など。
註3:中原淳一
なかはらじゅんいち(1913〜1983)
イラストレーター、人形作家。1946年に雑誌『それいゆ』、翌年『ひまわり』を創刊。
註4:南洋一郎
みなみよういちろう(1893〜1980)
小説家。雑誌『少年倶楽部』で冒険小説を連載。ポプラ社の「怪盗ルパン全集」の翻訳者でもある。著書に『形見の万年筆』など。
註5:『中世の秋』
ホイジンガ【Johan Huizinga】原著(1919)。堀越孝一訳、中央公論社。
註6:大原孫三郎
おおはらまござぶろう(1880〜1943)
倉敷生まれ。実業家。倉敷紡績などの社長を務め、地元経済界の重鎮となる。中国水力電気会社(現在の中国電力)や倉敷絹織(現在のクラレ)を創立したほか、私財を投じて大原社会問題研究所、倉敷労働科学研究所、大原美術館などを設立。
2. 歳月と環境が育む変化
(中村)
 久しぶりに倉敷を訪れて、改めて本物はいいなと思いました。生命誌もいつも本物をめざしていますし、実はこの季刊生命誌もおかげさまで50号になり、それなりにまとまりが出たと思っているのですが、大原美術館の歴史と3,000点の所蔵品は羨ましいですね。365日本物を見続けて暮らせる、これはもうぜいたくの最たるものですね。
(大原)
 毎日一点ずつ見ても10年かかるわけだから。確かにぜいたくかもしれないけど、本物にどっぷりつかる毎日が子どもにとって楽しかったかというとそうでもない。子どもの頃好きだったものと今好きなものって全然違いますね。ゴーギャン※註7の、《かぐわしき大地》なんて、子ども心に薄気味悪くて。特に女性の足下、この辺りは怖いです
(中村)
 なるほど。小さいから下の方から見上げるのね。絵の大きさもちがうでしょうし。
(大原)
  でも、にきび面の中学、高校ぐらいの時にこの絵はすごいと思い始めました。美術館に来てくれる子どもたちもそういう体験をするようで、ある小学4年生が、「前に来た時はモネの絵(クロード・モネ※註8《睡蓮》1906頃)が好きだったけど、今度来た時にはライリーの虹(ブリジット・ライリー※註9《花の精》1976)が一番好きになりました」という手紙をくれました。光と色彩の名手のモネから、優しく繊細な色遣いが魅力のライリーに関心が移ったのです。子どもなりに時間をかけてだんだん見方が変わっていく。
(中村)
 時間をかけて一つの絵を見ることで、作品は変わらないけれど見る側との関係は変わってゆく。昨年のテーマは「観る」だったのですが、そこには時間をかけて見るという気持ちが入っています。いまのお話の場合、見続けるという意味だけでなく、時間を置いてまた見るということも意味のあることなのですね。一つの対象と関わるには時間をかけて付き合うと発見があり楽しい。
(大原)
 例えば一冊の本を読むにしても、子どもの頃と今とでは全く感じ方が違うでしょう。環境もまた大きな要因で、僕は京都に住んでいたけれど、東京や海外に住んで、改めて京都に帰った時に初めて「春はあけぼの」はこれだと実感した。
註7:ゴーギャン
【Paul Gauguin】(1848〜1903)
フランスの後期印象派の画家。輪郭線のある平面的な彩色を用いた。晩年はタヒチで制作。のちナビ派、フォービズムに影響を与える。
註8:クロード・モネ
【Claude Monet】(1840〜1926)
フランスの印象派の代表的画家。1890年代より《睡蓮》の連作を描き初める。大原美術館所蔵の《睡蓮》は児島虎次郎の要請に応えて、「日本の画家のために」とモネ自身が選んだ作品の一つ。
註9:ブリジット・ライリー
【Bridget Riley】
1931年イギリス生まれ。1960年代半ばより錯視効果を強調した「オプティカル・アート」の代表作家として活躍。鮮明な色彩と繊細な描線の反復表現を基本とする。
(中村)
 私も今まさに春はあけぼのを実感しています。京都の自宅で春の日の朝6時頃に目を覚ますと、まさに東山から太陽が上がってくるのです。同じ時刻でも冬は真っ暗、夏は既に明るくて、春は「やうやう白くなりゆく山ぎは」なのです。それを見て、「春はあけぼの」だ、清少納言※註10は私と同じ時間に目を覚ましていたのだと。
(大原)
 「春はあけぼの」は春の京都の東山のふもとでしか感じられない。日々の暮らしと時間が密接に関わって、四季に根ざした文化が生まれたのです。だけど僕は小学生の頃にはそういうことを全く感じなかった。
(中村)
 そうですね。子どもに本物を見せることは大事だけれど、子どもの見る目は違うということも知っておかなければいけない。大人が間に入ることのプラスとマイナスを考えなければいけないんでしょうね。実は研究館は子どもをとくに意識せずにやっているのですが、時々小ちゃな子どもが面白がって何度も来てくれるんです。何を面白がっているのかはわからないのですが、それでいいんだと思って。私の東京の家から富士山が見えますが、季節によってお日様が西から東へ移動し、2月と11月に富士山の真上に夕日が沈むの。東の夕日と西の朝日を対比して眺める視点は、子どものものではないかも。
註10:清少納言
せいしょうなごん
平安中期の女房。中古三十六歌仙の一。随筆『枕の草紙』の第一段は下記の文言で始まる。「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎはすこし明かりて紫だちたる雲のほそくたなびきたる。」
3. 眼差しと信頼を基礎に
(中村)
 ここ十数年、月の半分を西日本に住むようになって東京のありようが見えてきました。外から見える東京はどんどん嫌な街になっていく。今度のオリンピック候補地決定にしても傲慢な感じでしょう。
(大原)
 地方にいると東京人の傲慢さがよくわかる。
(中村)
 私は東京人としても、日本でもう一度オリンピックをやるなら別の場所。今回福岡が立候補したのだから福岡を応援しました。知名度が低いというのなら十年間みんなで福岡福岡と言えばいい。今まで東京を日本の中心地として支えてきたのだから、そろそろ他の地域を日本の代表として国際的な舞台に出していかなければ。西日本には歴史ある文化がありますしね。
 
(大原)
 まさにそう。わずかな朗報は、去年、東京、奈良、京都に続いて福岡に国立博物館ができたことですね。これからもう少しそういうものが地方にできるといい。
 美術館の世界でいうと、ここ倉敷にある大原美術館は世界の美術を集めた日本で最初の私立美術館として設立された。東京で最初の私立美術館は1952年に石橋正二郎さんが作られたブリヂストン美術館※註11だけれど、ブリヂストン自体は久留米の会社ですから、本来は久留米に建てるべきものを東京に作ってあげたのです。うちの高階館長※註12が前に館長を務めていた国立西洋美術館※註13も同じで、1959年に神戸の松方幸次郎さんのコレクションを核にして設立された。そういう形でみんなで東京を盛り立ててあげたことを忘れている。
(中村)
 非常に具体的にわかりますね。最近は少しずつ地域に眼を向けようと言われていますが、まだかけ声で、一極集中の感覚は抜けていませんね。
 国立美術館のお話しが出ましたが、戦後の日本は物を作る際にはまず箱を作りました。ここに文化施設が「あるべき」だと考えて、まずは建物を作ってから財政的に余裕があれば評判の名画を買ってくる。けれど大原美術館は、まずは一人の画家を育てようというというところから始まっていますよね。
(大原)
 大原美術館は今から70年余り前、事業家大原孫三郎により親友の画家・児島虎次郎※註14を記念して建てられた。この美術館の設立は、大原孫三郎と児島虎次郎の信頼関係を基礎にしています。初期のコレクションは孫三郎の援助を受けて渡欧した児島が画業の研鑽の傍ら収集したものですが、その方法はあくまでも人と人との関わりを基本にしていた。例えばベルギーのゲント美術アカデミーのジャン・デルヴァン校長に自ら師事し、その紹介でアマン・ジャンという絵描きと親交を深めてその作品を購入したり、モネのアトリエを訪ねてモネが選んでくれた《睡蓮》を譲り受けたりと、個人の信頼関係をとても大切にしている。
(中村)
 世間で評判で価値が高いものを買い集めるのではなくて、その時一緒にいた仲間の作品の中で本当に気に入ったものだけを求めていらした。そうやってコレクションができ上がってきたということが、とても魅力的です。
註11:ブリヂストン美術館
1952年に株式会社ブリヂストンの創立者石橋正二郎によって東京の京橋に設立。印象派を中心とするヨーロッパの近代美術と、明治時代以降の日本の洋画を収集・展示。
註12:高階秀爾
たかしなしゅうじ
1932年東京都生まれ。美術史家、美術評論家。国立西洋美術館館長を経て、2002年より大原美術館館長を務める。東京大学名誉教授、パリ第一大学名誉教授。著書に『名画を見る眼(正・続)』(岩波新書)など。
註13:国立西洋美術館
1959年に東京の上野公園内に開設。日米講和条約を契機にフランス政府管理下にあった松方幸次郎の滞欧収集作品・松方コレクションが返還され、これを収容展示するために設立される。
註14:児島虎次郎
こじまとらじろう(1881〜1929)
岡山県生まれ。洋画家。東京美術学校卒業後、ベルギーのゲント美術アカデミーを首席で卒業。大原孫三郎の依頼により数度渡欧し、美術品の収集にあたる。
(大原)
 ほとんどが同時代のものなのに、ヨーロッパで出会ってショックを受けて児島が選んだ作品に、エル・グレコ※註15の《受胎告知》というバロック時代の絵画があります。
(中村)
 これは大原美術館の象徴ですね。本来日本とは違う色のはずなのにピタリとおさまっているのは思いが入っているからかしら。
(大原)
 明治という文明の衝突する時代に生まれて洋画家を志した児島は、イスラムとヨーロッパの文化が混在するスペインで、ギリシャ人でありながら画家として活躍したグレコに対して同じ異邦人としての共感を抱いていたのじゃないかな。トレドにあるグレコのアトリエの跡を訪ねたり、アルハンブラで制作を試みたり、かなりグレコを意識していた形跡がある。たまたま児島虎次郎の孫の陶芸家(児島塊太郎)が友達で、先日一緒にアルハンブラへ行ったら、こんな小さな陶片一個の前で立ち止まって動かなくなってしまった。それを見て、祖父の虎次郎もグレコを見た時に同じ感動をしたのだろうと思いました。これが大原美術館唯一の所謂オールドマスターです。
(中村)
 存在感がありながら他の作品と違和感がないのは一人の人の目で選んでいるからでしょうね。
(大原)
 どの作品にもいつも児島の眼差しがあって、原点がぶれていない。彼のおもしろいのは、ヨーロッパに三回渡っただけでなく、中国・朝鮮半島を四度旅して、ついにはエジプトにも行ってしまう。いつも根源にある何かを見つめて、文化の源流を探っていたらしい。孫三郎とは、そういう点も理解し合っていたのでしょう。
(中村)
 なるほど。二人には基本を考えるという点で共通点があった。友人として、支援者として、互いに信頼できる関係にあったのですね。大原美術館のコレクションには児島虎次郎の眼差しが生きていて、その背後には孫三郎さんの応援がある。それが表に出ているわけではないけれど、人間があるというのは魅力を作るんですね。時間とともにものの見方が変わることの面白さが出てきたけれど、一人の人間の中には変わる部分と変わらない原点がある。体の中心にぶれないものがありながら柔軟に変化する時、本人も周囲も楽しくて、そこから何かが作られていくのでしょうね。
註15:エル・グレコ
【El Greco】(1541〜1614)
本名Domenikos Teotokopoulos。ギリシャ生まれ。スペインの画家。マニエリスムから初期バロック時代にかけて活躍。特異な筆致と大胆な構図で描く宗教画は後世に大きな影響を与えた。
4. 本当の細部から見えるもの
(大原)
 これまで様々な企業の経営に携わってきたけれど、事業でも何かを変えようとする時に絶対に大事なのは原点です。以前来て頂いたクラレ※註16の研究所から丘の下を見下ろすと、最初にレイヨン糸を生産した倉敷工場が見えるでしょう。高梁川の廃川地に建てられているから境界線もまっすぐではなく、昔の堤防に沿ってうねっている。レイヨン工業は水を沢山使うので、立地としては廃川地の地下にある伏流水がひとつの決め手でした。僕はクラレで新規事業を担当していた頃、何か新しいことをやる時は必ずこの廃川地に行って、葦の生い茂るこの場所で創業者たちが考えていた事を思い出すようにしていたんです。
(中村)
 具体的にそういう場所があるのは幸せですね。
(大原)
 クラレという会社にとっても、倉敷に原点があるのは幸せです。今、大原美術館は第三の創業期と言っていますが、その始まりは創立70周年を機とした児島虎次郎の再評価です。「没後70年児島虎次郎展」が全国9カ所を巡回し、僕は児島の足跡を辿ってベルギーのゲント美術アカデミーに行きました。そこには広い実習室があって、床は絵の具で汚れていて、その時も児島の孫(塊太郎)が同行したのですが、彼がまた絵の具の上で動かなくなっちゃいましてね。
(中村)
 おじいさまの残したものがあるかもしれない。
(大原)
 そう、ベルギーの実習室の床の上に落ちている絵の具にも、大原美術館の一つの原点があるかもしれない。こういう一つ一つの細部を見つめ直す事から第三創業期を始めました。
(中村)
 落ちている絵の具とか、生えている葦とか、細部に意味がある。最近は構造改革だ何だと大仰な事が言われていますが、大切なのは細部なのですね。
(大原)
 見えているのは一本の葦だけど、その周りにはクラレを育てた風土が広がっている。
(中村)
 細部を通して向こうが見えるというか、細部を通してしか見えないというか。どうしてDNAを見てるのかは、DNAそのものを見ているのではなく、DNAを通して初めてその向こう側に「生きている」が見えるのです。物理学者は量子から宇宙が見えてくるそうですし。
(大原)
 マーケティングデータを見るだけで事業化してもだめです。研究もそうでしょう。
(中村)
 自分が本当に関わり合っている細部じゃないといけませんね。
(大原)
 本当の細部が見えなければ物事は腹の中に納まらない。何十億というお金を使う時、どんなに良くできた計画書が提出されても、それが見えないことにはどうしても納得がいきません。文句の付け所のない如何にもきれいなデータが出てくる。でも、その腹におさまらないよと言っている部分を大事にしないとやっぱり事業もうまくいかないし計画も失敗します。
(中村)
 前回の岡田先生とのお話で「カンで行こう」となったのですが、それはまさに腹におさまることだけやろうということです。最近は評価ばやりで腹におさまるかどうかではすまなくなった。いくら私はこれしか納得できないと説明しても、何か数字がないとだめという世の中になっているのが問題ですね。
(大原)
 ここは私立の美術館だから、僕の腹におさまったとか、あるいは高階館長の腹におさまったからこれで大丈夫だなとか、そういう見方をしていく。公の場を歩いてきた高階館長も生き生きしていますよ。
(中村)
 個人の勝手とは違う。責任は持つわけで、覚悟は必要だけれどセンスを生かすことが許されないと、本当におもしろくて意味のあることは出来ませんね。
註16:株式会社クラレ
1926年、「倉敷絹織」の社名で岡山県倉敷市に設立。繊維業。1950年代には世界初の国産合成繊維としてビニロンを工業化。
5. 文化は人の手で作る
(中村)
 クラレの原点について伺いましたが、地域という原点は大切ですね。先日も門真市へ行った折、そこの教育委員長さんや学校の先生方が松下電器※註17が今も創業の町・門真を大事にしていることを評価していました。事業を拡大する際、門真に本拠を置く事が必ずしも利益になるとは限らない中で門真を選び、教育関係の人たちも門真に松下があることを誇りに思っているから、生徒にもそれが伝わる。ゆとりだ学力だなどと言うよりも、これが教育の原点だと思いました。
(大原)
 そこに暮らす人々は、日常の中で松下を実感しているわけね。
(中村)
 門真という原点にちゃんと根付いているから世界に羽ばたけるのかも。
註17:松下電器
1918年に松下幸之助によって設立。大手総合電器メーカー。1933年より大阪府門真市に本社を置く。
(大原)
 門真という町は、お上ではなく松下幸之助さんが作られた町です。西日本はおおむね活発な市民、町衆※註18が頑張っているところが多い。倉敷からクラレが、門真から松下が、滋賀から東レが出てきたように。京都などは典型的な町衆の町ですね。
(中村)
 文化は町衆が原点で、町衆は地域を原点にしている。お上から言われて作るものではありませんね。
(大原)
 霞ヶ関あたりの人は「民間をどう政策に協力させるかが問題です。」なんて言うが、それは違う。行政ではなく、僕ら町衆が主体となってやるのが基本です。
(中村)
 あなたたち邪魔しないでという感じね。
(大原)
 大原美術館も地域との関係を重視しているけれど、倉敷の町衆は素晴らしい。文化は、いわば楽しみ上手の町衆が作るものです。市役所の職員の中にもNPO精神を持った人がたくさんいて、一つ祭りをしようとすると、彼らが公共精神を持つ町衆と一緒になってねじり鉢巻きで大騒ぎしながら作り上げていく。同じ事を行政が大手広告代理店を通してやろうものなら数千万円かかりますが、みんなが楽しみながらやっているからお金もほとんどがかからない。
(中村)
 生命誌研究館でも基本は全部手作り。外部に依頼すると費用がかかるだけでなく、本当に作りたいものはできませんから。物を作る段階では専門家に依頼しますが、徹底的にやり取りします。何度も相談を重ねるうちに、「そこまでやって大丈夫?」と心配になるほど積極的な提案が出てきたり、だんだん外の仲間も育っています。
註18:町衆
まちしゅう
室町時代に京都、堺などの都市で自治・自衛的共同体を構成した商工業者。町を組織して、町掟・町法を定め、月行事を運営するなど町衆文化の主体となる。近世では町役人など、町内の有力者を指す。
(大原)
 「生命誌絵巻※註19」を作る時などまさにそうだったんでしょうね。ガンガンやり合って、ここ違うわよとか何とか言い合いながら。出来上がりは素晴らしく美しいものね。
註19:生命誌絵巻
せいめいしえまき
団まりな協力、橋本律子作画。生きものの38億年の歴史と関係性を扇形の図に表す。生命誌のシンボルとして1993年の開館時よりBRHのホールに展示。
6. 白と黒の真ん中で考える
(中村)
 芸術の世界で本物に触れたいと思えば、美術館に足を運んだり、楽器を演奏したり絵筆を持ったりと皆にそういう気持があるのに、科学はそういう感覚を持てないまま来てしまった。ここが悩みです。大原美術館には毎日見ても10年かかるくらい本物があって羨ましいと言いましたが、科学も自然という本物と毎日付き合っているので、そういう意味ではぜいたくです。だけどそれを、理屈や数字を並べたててお勉強するのではなく、誰もが納得できるように美しく表現したい。頭で理解するだけでなく、大原さん流に言えば、すべてのものが腹におさまるようにわかるようにしたい。それが難しいのです。
(大原)
 僕は子どものころは科学少年だった。『子供の科学』※註20を読んで、実験と称しては友達とばかな事をやっていました。
(中村)
 付録があっていろいろなものを作るんですよね。
(大原)
 氷に塩を入れたらアイスクリームができるとあったけど、やってみると、そんなに使ったら叱られるくらい驚くほど沢山の塩を入れなきゃいけない。そうしてほんの少しだけアイスクリームが出来て、それがどんなに美味しかったか。学校の先生もよくて、銅の炎色反応を実験する時、「アルミじゃつまんないから、トタン板持ってこい」と言ってトタン板に硫黄を積み上げて、上から銅の粉をパッと振りまいて。火をつけるとボワッと派手な色の炎が上がって、「どうだ、おもしろいだろう」と。危ないですけどね。
(中村)
 今同じ事をしたら親から抗議がくるかも。学校でも実験の時間がどんどん減って、科学が日常から離れています。
(大原)
 実験しないと面白くないですよ。
(中村)
 代わりに数式を暗記して、それを解答用紙に書けば理解したことになる。
(大原)
 自分の手でカエルを解剖して、自分の目で動いている心臓を見るのは、残酷だけど重要です。
(中村)
 カエルの解剖はしても、人は殺さない。これは何が違うのかというのは、理屈ではありませんね。節度です。物事は白か黒かではないのに、最近は政治も白か黒かと聞いてくるし、学校の先生も白が正解で黒は間違い、そういう教え方をしている。けれど白と黒の間には広大なグレーの領域があって、生きものの面白さや、「ここまではやってもいいよ」という限界はここに込められているわけでしょう。この中間地帯には定義の出来ない豊かな曖昧さがあって、それが自然であり、命であり、科学であり、芸術であり、総称するところの文化なのでしょう。白か黒かと迫ってくるのは文明で、二者択一の世界には自由も多様性もありません。
(大原)
 文化の中には薄いグレーを体験する過程が組み込まれていますね。先程の炎色反応の話もそうですが、僕は中学生の頃に硫酸の入った試験管を落として火傷をした跡がある。それはとても危険なことだけど、それで科学ってやばいんだなって実感した。クラレの中条工場では青酸を扱うし、隣にはアセチレンがある。これがどんなにやばいかというのは、中学校の頃に硫酸を落とした体験で実感できる。手を動かすと必ず失敗しますが、それが大事にならないようにするには経験が大切です。
(中村)
 最近の事故が増えているのはそこですね。コンピュータから出てきたデータを判断していても、どのぐらい「やばいか」が体感できない。画面上で温度が高くなっても現実に燃え出しはしないから、怖さがわからない。
(大原)
 美術でも手を動かす事は大切で、大原美術館では先日「チルドレンズ・アート・ミュージアム」というイベントを開催し、現代美術の展示室で「ギオン祭」をやりました。絵を見て感じた音を、「ビョーン」とか「キャーン」とか「ウォーウォー」というように擬音にして紙に書いて、それを作品の前に置く。僕もやってみたら、「ぐちゃぐちゃぐちゃ」とか、「ふわんふわん」とか(笑)、音を作ることで自分の中に響いてくるものが見えてきて、作品が身近に感じられます。
(中村)
 祇園祭でなく「擬音祭」。なるほど。
註20:『子供の科学』
1924年誠文堂新光社より創刊、現在まで続く。
(大原)
 音楽は関わるのに自制心が要ります。ギャラリーコンサートは演奏家とお客様がとても近いから、聴きながら拍子をとろうとすると演奏家にとっては邪魔でしょう。絵についても自制心は必要で、触られては困る。けれどいろんな関わり方が工夫できる。擬音を作ることでもっと絵の中に入っていけます。
 子どもたちはとても素直で自由。学芸員の息子さんが大原美術館の中で「青いお尻」が大好きと言うのですが、これはイヴ・クライン※註21の《青いヴィーナス》を指していて、子どもの目線から見ると真っ青のトルソのお尻しか見えないけれど、その子なりの見方をしている。モネの《睡蓮》を見て、この絵の池の中にカエルがいると言った子もいます。
(中村)
 その子には「ポチャン」という音が聞こえているかもしれない。絵を見るにしても、ただ眺めているのではなく、作品と関わって中へ入っていくのは面白い。擬音で絵を見るというのはいいアイディアですね。これならわかりにくいと言われている現代美術の方が、かえって入って行きやすいかもしれませんね。
註21:イヴ・クライン
【Yves Klein】(1928〜1962)
フランスの芸術家。単色の作品を制作するモロクロニズムの旗手。青を重用し、1957年に「インターナショナル・クライン・ブルー」(International Klein Blue, IKB)と呼ばれる深い青色の染料を開発。
(大原)
 これは毎年開催していますが、スタッフにも、子どもたちにも色々な発見があります。屋外の彫刻が並ぶ芝生の上でダンスワークショップをすると、彫刻の股の間をくぐったり抱きついたり、人によっては速水史朗※註22の《道しるべ》という石彫の上にベタッと寝たりするんです。この体験が10年20年たった後に、子どもたちの体のどこかに原点として残っているかもしれない。まさに「見る」から「関わる」へですね。
(中村)
 しかし冒険ですね、作品に触ってもいいよ、くぐってもいいよというのは。
(大原)
 もちろん子どもたちにも心得があって、靴は脱いでもらうし、アクセサリーも外してもらいます。やる前には職員が一生懸命磨いて、やった後も掃除が大変。みんなで特別な日を作り上げていく。しかも音を作ったり、ダンスをしたり、総合的に展開する。楽しみ方の多様さというのは、関わり方の多様さと、それから作品保護とのバランスです。
(中村)
 バランスの取り方というのは、白か黒かではない、真ん中で考えるのに通じる大事なことですね。
註22:速水史朗
はやみしろう
1927年香川県生まれ。彫刻家。丸みを帯びたフォルムの石彫や瓦焼と呼ばれる陶作品を制作。
7. 伝える、わかる
(中村)
 前回の岡田先生との対談で考えたのは、生命誌研究館が科学を文化として表現していくのなら品のある娯楽を目指すのも有りということなんです。表面的に面白いだけではない、今日のお話しのような知的で情緒ある、本当の意味での総合的なエンターテイメントが必要なのではないかと。それで大原美術館の活動がとっても印象的なんです。
(大原)
 エンターテイメントの中から何が引き出せるかは、作る側の何を伝えたいかという心の熱さに大きく関係するでしょう。伝えたい人の心の熱さがあるから、受け取る人もきちんとしたメッセージを受け取ってくれる。例えばこの絵(《頭蓋骨のある静物》1942)は戦時中にピカソ※註23がパリの隠れ家で描いた絵です。画中に頭蓋骨として描かれている牛は《ゲルニカ》にも描かれているモティーフで、一輪の白い花には同時代のレジスタンスに参加している人々への思いが込められている。政治的にも歴史的にも、とても強いメッセージがあるけれども、この絵を見る子どもたちはそんなことは知りません。湾岸戦争すら知らない子が、「僕は骸骨と花の絵が好きです」って手紙をくれる。子どもが受け取っているメッセージとピカソが出しているメッセージは全く違うけれども、ピカソにそこまでの深い思いがあるから、何か別のかたちで子どもに深いものが伝わっている。僕らは運営者の側に立っているけど、美術館を支える者としての僕らの思いが強ければ、それもまた受け手に伝わると思っています。
(中村)
 なるほど。そう言われればそうかもしれないな。
(大原)
 いや、あんまり納得しないでください(笑)。科学のエンターテイメントとは違うかもしれないけど、僕ら元科学少年としては、わかることの快感を体験できる演出を期待している。
(中村)
 岡田先生がよく、科学に接した時にはわからんと言うのが礼儀だと思われている節があるとおっしゃる。「わかりません」と言うと、「あなたのやっていらっしゃることはすばらしいことです」という事になる。
(大原)
 難しいことをやっておられて素晴らしいというメッセージなのですね。
(中村)
 一生懸命に話して最後に「わからなかった」と言われると、こちらはがっくりきます。だから、頭でなくて腹でわかるような表現をやるのが科学のエンターテイメントかもしれないと思ったり。
(大原)
 わかることはおもしろいことですしね。
(中村)
 エッセイ風の文章で、科学を日常の事として書くと逆にわかったと言ってもらえます。こちらの気持も日常的になっているからかもしれません。
(大原)
 きっと肩の力が抜けているからでしょうね。
(中村)
 けれども科学には客観性が必要とされている。芸術ならばピカソはピカソ、マチスはマチスでいいのですが、「私の」科学というのはなかなか許されない。ピカソという個性はそのまま芸術の代名詞だけれど、科学で作り手の個性を表現するのは難しい。「生命誌」は普通の生命科学に比べると、「私の」科学のほうへ持ってきていますが。
(大原)
 科学というより詩ですね。それでいいのでは。
(中村)
 けれども私の気持ちの中には客観的へのこだわりもあるのです。誰がやっても、どうやっても、形にできる表現があるのではないかと思っていて。大原美術館が羨ましいのは、訪れる人が沢山の本物を、ピカソなら「ああピカソだ」と素直に見てくれることです。科学はそうは見てもらえません、科学の表現の難しさです。
(大原)
 だけど、ピカソだとわかるとピカソの名前にこだわって絵が見えなくなる事もある。
(中村)
 では、名前を出さないで見ればいいというわけでも・・・。
註23:ピカソ
【Pablo Picasso】(1881〜1973)
スペインの画家。フランスに定住。作風は変転を極め、非凡な天分を以て常に斬新な境地を開拓。《ゲルニカ》(1937年作)は第二次世界大戦のスペイン・ゲルニカ爆撃に衝撃を受けて描いた代表的絵画作品。
(大原)
 これまた不思議で、1942年にピカソが描いたという事実もやはり意味がないことではない。この絵(ジャン・フォートリエ※註24《人質》1944)は1944年、第二次世界大戦の真っ最中にナチスに弾圧されていたユダヤ人が描いた作品ですが、その事実には何かそくそくと迫ってくるものがあります。
(中村)
 作者の年齢、その背後にある環境や時代が絵の個性になっているのですね。科学で個性が目立つのはアインシュタインぐらい。相対性理論は普通の人にはわからないから、アインシュタインのものになっているのかもしれません。「E=mc2」という簡単な式だけど、とってもアインシュタインです。
(大原)
 そんな式はもう出てこないでしょうね。
(中村)
 ここまでの個性でなくとも、科学にはもっと人間が出てもよい気がするのです。
(大原)
 先ほど夕日のお話をしましたが、丹沢の彼方の富士山に夕日が落ちると、「ああ、美しいなあ」ときますよね。ところが意外だったのは、春の何月何日の何時ごろと秋の何月何日の何時ごろに太陽はまっすぐ富士山の上に落ちると言われた。
(中村)
 2月と11月。
(大原)
 それを聞いて、本能的に科学者だなと思いました。
(中村)
 それは、天体の動きが美しく日常的に見えてとってもおもしろいのです。いつも同じところに太陽が落ちていたら、景色としては美しくても、自然のおもしろさがない。
(大原)
 自然の法則を発見する人はやはりすごい、これが科学者なのですね。
(中村)
 そのくらいなら私にも。でもそこを伝えていけばいいのかな。
(大原)
 僕はプラネタリウムが好きで、自然を見るのとはまた違う驚きがある。たとえば何万光年も離れた星の重なりが表現できて、宇宙の奥行きをこの目に見せることができたら、それだけで宇宙に対して心からの愛着が湧くと思います。わかるということは面白いし、ものの見せ方次第で夢が広がっていく。
(中村)
 見せ方は大切ですね。それに広がりも。
註24:ジャン・フォートリエ
【Jean Fautrier】(1898〜1964)
フランスの画家。アンフォルメル。第2次世界大戦中は対独抵抗運動の中心人物となり、1942年から44年にかけて《人質》のシリーズを制作。
8. 21世紀の地球化へ向けて
(中村)
 西洋の美術と科学、両方とも明治以来どっと日本に入ってきて、一言で言えば進んだものを受け取る気持があったのでしょうか。近年、そのあたりに「?」がついてきましたね。私たちにはこの国の風土や歴史を含めた日本人としての原点があるのではないかという気持です。アメリカ主導型の文明が幅をきかせていますが、それぞれの地域に根ざした文化があるのだから、グローバルと称してアメリカ型文明を押しつけるのは合わないような気がしているのです。この辺で考えなくてはと思います。
(大原)
 お言葉を返すようですが、案外世の中に言われている「日本人の原点」というのは「東国人の原点」であることが多い。西国人の原点は少し違うかもしれない。西国人はまさに、今おっしゃったアメリカ風の文明になじみにくい。
(中村)
 なるほど。私は東京生まれなのに最近東京が嫌になって西に少し入れてもらえたかなと思っていましたが、東国人、西国人というのは厳しいですね。そういう分類はしていませんでした。歴史を見ても日本の原点は西ですけど。
(大原)
 僕の家は真言宗※註25ですが、歴史の教科書では真言宗などの旧仏教は権力と結びついて次第に堕落し、鎌倉時代に新しく現れた禅宗が主流になったとされている。日本の仏教史では、旧仏教が堕落すると新仏教がそれに取って代わって台頭する。
(中村)
 白か黒かの歴史ですね。
(大原)
 だけど、それは違うというのを僕ら西国人は実感する。弘法大師の跡を訪ねて八十八カ所を真面目に回っているお遍路さんがいるし、彼らを沿道でご接待している人たちもいる。その中で生きているものは、弘法大師の心で生きていたものだと思います。僕は禅宗も好きで大徳寺へよく行きますが、だからと言って日本の仏教は禅宗だよと言い切ってしまうのは違うと思います。
(中村)
 なるほど。仏教の歴史を生活の中で実感されているのね。
(大原)
 歴史の教科書では消えたはずの真言宗が今も人々の暮らしや心の中にあるというのは、西国人の何かを象徴している。武家文化と町家文化、あるいはお上社会と町衆社会と言ってもいいかもしれないけれど、不屈の町衆精神のようなものを。
註25:真言宗
しんごんしゅう
仏教の流派の一つで、9世紀に空海(774〜835)により中国から伝えられた密教宗派。大日経、金剛頂経などを所依の教説とし、即身成仏を目的とする。空海(弘法大師)の修行の遺跡である四国八十八箇所の霊場を巡拝する遍路は近世以降流行。
(中村)
 町衆にはかなりこだわってますね。確かに21世紀の地域社会を考えるなら、乱暴に日本などと言わずに歴史、地理、文化で細かく見ていく方が本当に面白いことができるかもしれない。大原美術館のこだわり方を見ると、孫三郎さんは21世紀にやるべきことを先取りされていたのですね。外を排除せずに、絵画としてヨーロッパのものをきちんと学ぼうと、しっかり西洋文化を摂取している。しかしそれは児島虎次郎というこの地の人の眼を通している。西洋のものなら何でもよろしいという態度ではないわけで、そこには地域、歴史、文化への眼差しが入ってますね。だから児島は中国にもエジプトにも行くし、孫三郎さんは倉敷の伝統工芸の復興や制作を主導していらしたでしょう。そこからついには民藝運動※註26へ辿り着いたのでしょうね。
註26:民藝運動
みんげいうんどう
日常の暮らしの中で用いられる工芸品などに「用の美」を見出し、その活用によって豊かな生活を目指す運動。大正末期、柳宗悦らによって提唱される。大原孫三郎の資金援助によって1936年には東京・駒場に日本民芸館を設立。
(大原)
 民芸運動の支援は孫三郎の息子の總一郎にも受け継がれ、彼は棟方志功※註27に美尼羅牟頌という版画を作らせました(棟方志功《美尼羅牟頌板画柵4図》1951)。これは『ツァラトゥストラはかく語りき』をテキストにしていますが、当時總一郎が手がけていたビニロン開発への想いが込められていて、彼は原料工場であるクラレの富山工場にこの作品を飾った。苦労を重ねた縁の下の力持ちの工場に、自分の旗を立てたのです。
(中村)
 工場に気持を込めた美術品を置くなんてカッコいいですね。總一郎さんもまた、ご自分の原点を大切になさったのですね。
 大原美術館の具体的な絵の一枚一枚からは、関わった人々の原点への想いや、この先、外とどう関わり、自分たちの歴史をどう掘り起こすのかという問いが聞こえてくるので好きなのですが、それは生命誌研究館がやりたい事と重なります。グローバリゼーションというのは、宇宙から地球が見えて、私たちは世界が抱える諸問題に気付いているという意味でしょう。21世紀に目指すべきは画一的な文明化ではなく、世界全体を見渡して、それぞれの地域の特徴を尊重しながら、その「関わり」を考えていくという意味でのグローバリゼーションです。そのためにはまず日常を大切にしなければならないというのが倉敷の活動からは見えますね。孫三郎さんは、事業という生活の基盤をしっかりお持ちになって余裕が出来たからこそ倉敷の文化を育てられた。
(大原)
 経済的にも物質的にも僕らとは桁違いのお金持ちだったから遊びの余裕があって、お茶や踊りや絵描きの人たちとも交流しました。遊びを通して自身の文化に磨きをかけたのでしょう。
(中村)
 遊びは大切ですね。私たちはそこまで裕福ではないけれど、国全体としてははるかにに豊かになっていて、気持としてある余裕を持ってもいいと思うのです。今は国として文化に取り組まなければいけない時期でしょう。「国として」というのは行政のレベルではなく、この国にいる一人一人が日常の暮らしを大切にして、自分と違う要素も取り入れて、取り入れたことが刺激になって自分を掘り出していくということ。倉敷でも東京でも京都でも、それぞれの原点に立ってやっていけたら楽しい。生きているということを考えるのは、そういうことではないかとこの頃思っています。
(大原)
 それがすべてのエッセンスです。高階秀爾館長の最初の仕事が、香川の金刀比羅宮と提携しての交換展示。最初「なぜ?」と思ったけれど大原美術館が所有するポロックやウォーホールといった現代アメリカ美術の作品を持って行くと、意外によく似合ってました。庶民信仰に根ざした金刀比羅宮とアメリカ現代美術の妙なる出会いは、開かれたやり取りから生まれた21世紀の新しい文化なのかもしれない。これはまだこれから解いていくことです。

註27:棟方志功
むなかたしこう(1903〜1975)
版画家。青森市生まれ。1936年《大和し美し》で柳宗悦らに見出され、以後、民芸思想に深い影響を受ける。土俗的ともいえる奔放な作風の「板画」は国際的にも評価が高い。文化勲章。
 
 生命誌ジャーナル 2006年冬号
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