生命誌ジャーナル 2005年冬号
Talk ─ 対話を通して ─ :目次
Talk ─ 対話を通して ─
年間テーマ「観る」
[実物から探る]
自然と歴史を観る喜び:藤森照信×中村桂子
藤森照信(建築史家/建築家)
中村桂子(JT生命誌研究館館長)
[ 対談を終えて|藤森照信 ]
 歩いて、見て、そして考える。こうした若いころからずっとやってるフィールドワークの喜びは、どこに由来するのかと思うことがある。
 この頃になって気づいたが、狩猟本能に由来するんじゃなかろうか。狩猟がはたして本能かどうか知らないが、少なくとも人類は生まれた時からやってきた。人類史の大半の時間は狩猟時間だった。
 そうした狩猟の喜びが、やがて、人類が思索の時代、知の時代を迎えた時に、フィールドワークという知の領分を切り開いたのではないか。“フィールドワーク”を訳せば、“狩猟”というのが一番正しいだろう。散歩している時にすばらしいアイディアを思いついたという話がよくある。私は、電車に乗ってる時がアイディアの時間だ。脳は、人体が移動している時、揺られている時に、活性化するのかもしれない。人によるだろうが、原始的な人ほどそのような傾向を持っているとひそかに確信している。
藤森照信(ふじもり・てるのぶ)
1946年長野県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。現在、東京大学生産技術研究所教授。建築探偵団、路上観察学会など多彩に活躍。著書に『看板建築』『建築探偵の冒険』『日本の近代建築(上・下)』『人類と建築の歴史』他。主な建築作品に<神長官守矢史料館><タンポポ・ハウス><秋野不矩美術館><高過庵>など。
1. 発見する喜び
2. 百年の歴史
3. 窓を開けた白い箱
4. 不測のものを観る
5. 見て、探して、語る
6. るつぼの中から観る
7. 多様な文化的原種を蔵す国
1. 発見する喜び
(中村)
 今年の生命誌研究館のテーマは「みる」です。多様な生きものがいる中でも人間は視覚情報が重要な生きものであり、学問もまさに観察から始まったわけです。自然界へ出て昆虫や植物を観察することと解剖して体のつくりをよく見ること、これが生きものを知る基本にありました。実際の世界へ広く出かけることとミクロの世界へ入っていくこと、共によく観ることが基本です。ところが最近は、生物学も分子で語ることになり、データを大量に出しコンピュータを使って分析するような研究が主流で、自然を観察することは、一時、時代遅れとされました。
(藤森)
 博物学段階。
(中村)
 そう。博物学的というとそれはもう終わったことだと。けれども、前回、対談のお相手をしてくださった細胞生物学・解剖学の廣川信隆先生※註1のお話でも、最近、目覚ましい成果を上げた背景には、電子顕微鏡写真をじっくり観てこれは何だろうと疑問を持った対象に注目しての研究への取り組みがあったのです。見えない分子を追いかけての分析も実は、研究者の頭の中にはイメージができているはずなのです。その段階を終えて、もう一度、実物を見る作業を重ねると、面白いことがわかってくる。きっと生物学と物理学の違いがそこにある。だから、見るということをもう1度、見直しましょうというテーマなのです。
(藤森)
 いいですね。
(中村)
 それから「みる」は何々観という時の「観」でもあります。
(藤森)
 世界観とか。
(中村)
 生命観、自然観。私は今、新しい世界観を組み建てる時期に来ていると思い、そのためには、歴史が大切。そういう気持ちで今年のテーマを「観る」としたので、藤森さん流にお料理してください(笑)。
註1:廣川信隆 ひろかわのぶたか
1946年生れ。東京大学教授。細胞生物学・解剖学。生命誌トーク46号「ミクロの解剖学から体全体へ」参照。
(藤森)
 「みる」ということは、具体的には探すということですね。探して、見る。例えば近代科学の初期段階には、ダーウィンがビーグル号に乗って世界中を探して見た。そこから地理学や博物学が生まれたわけです。探して見るということは、人間の中にある失せることのない好奇心でしょう。現代社会では、ちょっと遅れた知性というか、博物学段階の知性とされるのだけれどなくなりはしない。僕の中でも、それが基礎になっているという気持ちがありますね。
 ただ博物学は普通、人間が作ったものを対象にしない。僕は建築学で歴史の分野を選んだので、研究室に古いもの好きの仲間がたくさんいた。そこで皆が忘れているようなものを探そうと言って、いわゆる西洋館を探して東京中を歩き始めた。建築を対象にした博物学の意識ですね。それが建築探偵団※註2の始まりです。
註2:東京建築探偵団
1974年、大学院在籍中に、堀勇良氏と東京に埋もれる近代建築の発掘を開始。建築探偵モノとして『建築探偵の冒険』『建築探偵東奔西走』など多数の著書がある。
(中村)
 少年探偵団みたい(笑)。その結成はいつ頃ですか。
(藤森)
 今から30年くらい前、大学院生で暇だったんですよ(笑)。今でもよく覚えていますが、ちょうど地下鉄の乃木坂を通る線が開通して。
(中村)
 千代田線ですね。
(藤森)
 当時、研究所が乃木坂にあったので、「国会議事堂の周りでも見るか」と、電車に乗って、国会議事堂の裏で下りて富士見町まで歩いた。その途中で本当に驚いた。建築雑誌を見て知っていたが、もうなくなったと思っていた建物が 、ふいに目の前に建っている。「ああ、実物がある」と感動しました。まさかあるとは思わなかった。考えてみれば変な話です。実物から始めるのが本当なのに、近代になると情報が整理され、流布しているので、逆に実物を見て驚くことになる。それは、当時すでに亡くなられていた堀口捨巳※註3さんという有名な建築家の作品で「塚本邸」といいました。住んでいる人に話を聞くこともできるわけですよ。
(中村)
 実物には、現代から過去をさかのぼるだけでなく周囲の状況も含めて、多くの実態があるのですね。
(藤森)
 いくらでも見ることができる。ひさしの裏側がどう作ってあるかもわかる。その時、改めて実感したのが、情報は限られた関心でしか作られていないということです。建築家は、ある建物を作ると、それを図面や写真の入った資料で発表します。資料には、俺はここを作ったぞという意識的なものだけが出ている。ところが実物には、本人も気づかないことや、無意識的な時代の状況まで表れている。実物はもう情報が無限です。情報にはその情報しかない。それは本当に勉強になった。当たり前のことだけど面白かった。それで建築探偵が始まったのです。
 ややオタク的に好きで始めたことですが、本当に大事なことをやっているんだとわかってきて、それを周囲も認めてくれるようになり、4〜5年経つと建築学会の大調査が始まった。それには僕らの先生だった村松貞次郎※註4さんの力が大きかった。先生が「おう、若い連中が面白いことやってるな。じゃあ、もっとやれ」って。それで全国に広がり、建築学会が西洋館約1万2千棟のリストを刊行した。現在では、いろんな人が西洋館に関心を持ってくれるし、政策としても近代建築を保存するようになったけれど、僕らがその基礎を作ったわけです。
 その後、荒俣宏さんと一緒にやったのが路上博物誌。荒俣さんは当時まだ売れてなくて(笑)、『帝都物語』を書き始めの頃でした。僕はちょうど東京の都市計画の歴史をやっていたので二人で意気投合した。上野動物園や小石川植物園(現東大植物園)に明治の頃から伝わる温室や室(むろ)など、古い中でもちょっと変わったものが残っているんです。それらをまとめて出版した『東京路上博物誌』※註5は、今でもその筋では知られています。
 その後、赤瀬川源平さんや南伸坊さんらと立ち上げた路上観察学会※註6では、もう建築とはいえないもの、建物のカケラ、マンホールなど、変なモノの総集編になる。そういうことを続けていて思うのは、やはり見ることの一番の喜びは新しいものと出会うことですね。見ることと新しいものを探すことは、ほぼ一緒に行なわれているのだと思います。初モノというか、普通では気づかないコトやモノと出会う喜び、これは何ものにも代え難い。見ていても見えていないものもありますし。
 もうひとつ大事なのが語る相手がいることです。昆虫を集めている人に聞いても、語る相手はだいたい2〜3人だそうです。少数でいいから語る相手がいる喜び。見ると語る。僕はその喜びでずっとやっていた。語るということで外化するんですね。恐らく自然科学の出発もそんなものだったに違いない。最初から今のような難しいことをやるとは誰も思っていなかったんだと思いますよ。
(中村)
 見て、発見する喜びが自然科学の出発点であり、究極であるということ。それに語るが組み合わされているというご指摘はなるほどと思いますし、生命誌はそれを考えてきたのだと改めて思いました。
註3:堀口捨巳 ほりぐちすてみ
(1895-1984) 建築家。分離派建築会の運動を興す。日本の数寄屋造りに美を見いだし伝統文化とモダニズム建築との融合をはかった。歌人としても知られる。
註4:村松貞次郎 むらまつていじろう
(1924-1997)静岡県生れ。建築史家。東京大学第二工学部建築学科卒業。東京大学生産技術研究所などで教鞭をとる。著書に『日本近代建築の歴史』『道具と手仕事』など。
註5:『東京路上博物誌』
藤森照信、荒俣宏共著。鹿島出版会。
註6:路上観察学会
1986年発足。『超芸術トマソン』の赤瀬川源平、路上博物誌の藤森照信、『ハリガミ考現学』の南伸坊、『マンホールのふた』の林丈二、事務局長の松田哲男ら五氏が中核メンバー。路上で観察できるすべてのものを対象にしたフィールドワークの活動は『路上観察学入門』に詳しい。
2. 百年の歴史
(藤森)
 僕らが探るのは、一言でいえば、“一度忘れられたもの”です。そこで発見の喜びを味わえた。
(中村)
 建築史という分野は、日本の大学ではいつ頃からあるのですか。
(藤森)
 明治以来ずっとです。
(中村)
 でも、藤森さんがなさったような作業はあまり行われて来なかったのでしょうか。
(藤森)
 いや、例えば僕らの三代ほど前の先生方は、奈良の法隆寺などを探していたのです。
(中村)
 法隆寺って、誰でも知ってるような気もしますけれど・・・。
(藤森)
 いやいや。あれは伊東忠太※註7さんという人が発見したのです。当時の人たちも、聖徳太子が作った古いお寺があるということは知っていた。もちろんお寺としての組織も続いているのだけれど、本当にどれだけ古いのかは誰にもわからない。
註7:伊東忠太 いとうちゅうた
(1867-1954) 建築史家・建築家。東大、早大教授。日本東洋古来の建築を研究。平安神宮、築地本願寺などを設計。
(中村)
 建築としてみるということですね。
(藤森)
 それを伊東忠太さんが、やはり大学院生の頃ですが、奈良へ行っていろいろ見て調べると、これはとんでもなく古いぞということになって・・・。
(中村)
 その調査はいつ頃ですか。
(藤森)
 明治20年代です。伊東さんは面白い人で、法隆寺の柱を見た時に「これはギリシアから来た」。エンタシスと呼ばれる独特の膨らみを帯びた柱の形から、ギリシア神殿と法隆寺が彼の中でつながるのです。それを証明しようと、ロバに乗って、雲南、アフガニスタンを通ってギリシアまで、何と3年もかけて歩いた。その旅からいろいろな成果が上がったけれど、法隆寺の柱とギリシア神殿のつながりを示すものは全然見つからず、その仮説は証明できなかったのです。
(中村)
 同じものが別の所で同時に出るって生物でもあるんです。平行進化。文化にもそれはあるんでしょうね。
(藤森)
 その時代が、日本の建築史の発見段階で、伊東忠太さんや関野貞※註8さんらが、奈良近辺の古寺を全部調べる。中でも感動的な話が、関野貞さんによる平城宮址の発見です。歴史として平城宮※註9が奈良にあったことはわかっていたけれど、宮殿跡ははっきりしない。調査に行ったら、田んぼの中に何やら台みたいなものがポコッとある。関野さんはその台に座って南を向いて弁当を食べていた。ぼんやり見渡すと左右にやはり盛り上がった台があって、肥溜になっている。それを見た途端、頭の中に、昔見た平城宮の平面図が思い浮かんだ。目の前に、朝堂殿が並んでいるように見えたんです。おまけに自分の座っているところは地元で大黒様の丘と呼ばれていた。これは大極殿ではないかと思って発掘したら、本当に大極殿だった。そういう時代があったんです。
(中村)
 平面図が浮んだ瞬間にイメージができたんでしょうね。知識ってそういうことのために持っているべきものなんですよね。わかる、見えてくる時がある。
(藤森)
 それ以降は民家などを除けば、現場を歩いて探すことはなくなっていきます。特に明治以降の近代建築については、社会的にも建築界というものができあがってくるし、明治20年以降は建築雑誌もある。要するに文字や記録がたくさんあるので本物を見なくても歴史の研究が済んでしまう。人間ってやっぱり横着でデータがあればそれでやろうとする。
(中村)
 なるほど。本物を見なくても設計図もあるし。
(藤森)
 写真もある。同時代であれば、「これはこういうつもりで作りました」と建築した本人がしゃべってくれる。だから現場を歩いて実物を探すということは誰もしなくなった。
(中村)
 実物を見られないものについては、文章や写真などの情報で歴史が作られてしまう危険性があるわけですね。
(藤森)
 それはもう仕方がない。特に歴史は文章で表現するしかない。やはり文字は意識の結果だから決定的なもので、その広がりの中で見ていくことになります。
(中村)
 同じものでも見る時代や人によって違ってくる。だから今、どう観るかといっても、過去のさまざまな時代に、いつ、どう見て来たかとは切り離せない。
(藤森)
 そうです。だからいつでも見て書かなくちゃいけない。記載する、論ずることが大事で、日本の建築界でいえば、建築を論ずる習慣は明治までなかったんですよ。以前は、建築は大工さんが作るものであって、知性の対象として意識的には捉えられて来なかった。
(中村)
 法隆寺の塔がどうやってできたかを調べてみると、それこそ知恵の塊ですね。ものとしては存在し、見えてはいるのに全然評価されなかったのはなぜでしょう。
註8:関野貞 せきのただし
(1867-1935) 建築史家。東大教授。美術史、考古学にも精通、法隆寺の研究で有名。著書に『日本の建築と芸術』など。
註9:平城宮 へいじょうきゅう
ナラノミヤともいう。元明天皇の710年から桓武天皇の784年までの諸天皇の宮城。宮城内の内裏・大極殿・朝堂院や諸官庁の遺構は、1959年以来、発掘調査が続けられ、何度もの改築の後が認められている。
(藤森)
 日本でもヨーロッパでも基本的には同じですが、工学が思考の対象になるのがルネサンス期以降なのです。天体はどう動いているか、物質の本性は何かといった理学的な探究はギリシアの頃からあったけれど、それが実際にどう役立つかという工学的な捉え方は、ルネサンス期にダ・ヴィンチのような人たちが注目されるようになって以来ですね。
 日本の場合はそれが明治時代。明治12年に、日本人として初めて、辰野金吾※註10さんがイギリスへ建築学で留学し、「君の国の建築の話をしてくれ」と先生に聞かれてびっくりする。だって何も知らない。知っているのは、お伊勢参りの伊勢神宮とか、家康公を奉った日光東照宮、つまり名所旧跡しか知らない。
(中村)
 建築としての伊勢神宮については語れない。
(藤森)
 向こうから見れば、伊勢神宮と日光東照宮ではえらい違いですよ。二つはどのように違うのか。彼だけでなく、当時は誰もそれに答えられない。帰国後、東大の教授になって教え子の伊東忠太さんに言うんです。お前は建築史をやりなさい、奈良へ行って調べなさいと。
(中村)
 なるほど。それが法隆寺の発見につながるのですね。
(藤森)
 それまで秘伝として伝授されていた経験的なものを、ヨーロッパに学んで初めて、客観的に見て、外化し論ずるようになったのは伊東忠太さん以来です。そこから今の僕らの世界が始まる。だから学問としては、百年しかないともいえるんです。
(中村)
 人間のつくったものには、その国の自然や自然観が反映しているはずですから、人工物を見ることで自然についての発見もある。人工物を見ることは、そういう面からも面白いと思うのです。
註10:辰野金吾 たつのきんご
(1854-1919) 建築家。東大教授。日本銀行本店、東京駅などを設計。
3. 窓を開けた白い箱
(中村)
 「語る」をテーマにした対談でお相手をしてくださった演劇の遠藤啄郎※註11先生が、「廃墟にならないようなものは作らんほうがいい」とおっしゃった。古代ローマの都市などは廃墟として価値が残る。ところが、現代の都市にあるような建物は、残っても廃墟にはならない。
(藤森) 
 ただの箱。
(中村)
 箱ならまだよくてゴミになる。廃墟は、歴史性を含んだものですね。生物学も、この生きものがいかに作られてきたかという歴史性を入れなければ、本質を観ることができない。おそらく人工物を考える時も、同様の観点が必要になるのでしょう。これまでの時代は、成長型の価値観に基づいて、開発を優先してきて一律化しましたでしょう。人工物の中にも自然観があるという形ではなくなった。それが廃虚にならない理由だと思うのです。都市や建築についても、もう1度、歴史性を入れた観点から考えていく必要があるでしょう。
註11:遠藤啄郎 えんどうたくお
演劇、人形劇、舞踊、音楽劇などの脚本・演出家。舞台用創作仮面のデザイン・製作。現代の「語り」芝居をライフワークとする。生命誌トーク42号「世界観を築く」参照。
(藤森) 
 そもそも現代の都市や建築は、バウハウス※註12から始まった。1919年に、ドイツの建築家のグロピウス※註13が始めたバウハウスという造形学校から世界中に広がったのです。その中心となった多くがユダヤ人だったし、各国の文化的独自性を否定したものだからナチスに目の敵にされて、ナチスから逃れにアメリカに亡命し、戦後にアメリカの建築を作ることになる。最初に彼らが作ったものが、一言でいえば、“ガラス窓を開けた白い箱”。その時、完全に排除されたものが、自然と歴史だったのです。
(中村)
 自然と歴史の排除。すごいですね。バウハウスという芸術運動は知っていましたが、そんなに大きな意味があったとは知らずにいました。
(藤森)
 人類の歴史の中で、完全に歴史とのつながりを切ったのは、おそらくこの時がはじめてです。その後、窓を開けた箱は、どこに行っても通じるインターナショナルスタイルとして広がり、現代建築の基本になったのです。
 自然科学が持つ本性を、あれほど分かりやすく、目に見える形で表したものは他にはない。自然科学そのものは国籍も、固有の歴史も持たない。科学では、例えばガリレオが言ったことは、その時点だけでなく、常に正しいわけです。もちろん時代が変れば、また違う理解が出ますが、彼が言ったことには変らない普遍性がある。自然科学が持っている抽象する力、“固有の現実から切れていく力”にあたるものが、建築では、あの“大きなガラス窓と白い箱”なのです。
(中村)
 科学技術時代、その中でのグローバリゼーションという、今問題になっている事の始まりの一つはそこにあるんだ。。
註12:バウハウス【Bauhaus】
ドイツの造形学校。近代建築運動の一つがここから始まり、絵画、デザイン、彫刻にも大きな影響を与えた。1933年、ナチスの圧迫により解散。
註13:グロピウス【Walter A. G. Gropius】
(1883-1969) ドイツの建築家。国際建築運動を主唱。国立バウハウス校舎など近代建築の名作を設計。のち亡命、アメリカに移住。
(藤森)
 バウハウスには2つのグループがあり、面白いことに彼らの中にも、ただの箱に飽き足らず、何か違うものを入れようと苦心した人たちがいるのです。彼らは、ドイツの伝統などの影響を深く受けた、完全には歴史を切れない人たちです。実は、僕らがよく目にする超高層の元を作ったミース・ファン・デル・ローエ※註14もその一人。彼は、もう根っからドイツのレンガ職人の子で、白い壁には満足しない。そこで、基本的な構成は箱なんだけれども、材料にものすごくいい大理石を使ったりするわけ。
(中村)
 自然の素材を使う。
(藤森)
 そう。もちろん鉄もガラスも使うけど、蛇紋岩なんかの自然の素材も使っちゃう。ミースは、幻想的な人なので、ガラスが透明な大理石や水晶に思えた。それで水晶の塔を建てようとしたのです。彼はアメリカのシカゴに渡って、初めてその機会を得て、戦後もシカゴの超高層を作り続けたのですが、アメリカは、彼の水晶の塔を単なるガラスの塔にしてしまった。それが今、ダーッとそこらじゅうに建ってる超高層ですよ。晩年になって、ミースはあるビデオの中で、自分の街を見ながらつぶやく「こんなはずじゃなかった」。
(中村)
 そういう精神が伝わらなかったのが残念ですね。今の東京を見ていると、将来はゴミだというイメージが浮んで悲しいですから。
(藤森)
 今でも建築家たちは、ただのガラスを建てちゃいかんとは思っている。でも、それは難しい。単なるガラスの箱であれば、安く合理的に作れる。超高層って安くできるんですよ。でも世間の人はあまりそういうことは知らない。
(中村)
 人間の歴史の中ではじめて、自然と歴史を完全に切ってしまったとは、本当にすごいことをやったものですね。今、その影響が世界中で表れている。それは都市や建物のあり方だけでなく、人々の考え方も、緑を潰して超高層を建てたほうがよいという発想になってくる。自然と歴史を切るってとんでもないことですね。
(藤森)
 とんでもないことです。だけど今、僕らがモダニズムの本質を考えることができるのはグロピウスたちのバウハウスがあったからですよ。自然と歴史を切るとはどういうことかをそのとおりに見せてくれた。なかなか自然と歴史から切れた状態なんて一目でわかるものではありませんよ。
註14:ミース・ファン・デル・ローエ【Ludwig Mies van der Rohe】
(1886-1969) ドイツの建築家。グロピウス、ル=コルビュジェとともに近代建築を開拓。鉄とガラスからなる高層建築の様式を完成。後にアメリカで活躍。
4. 不測のものを観る
(中村)
 藤森さんは、「観る」の基本が、新しいものを探して見つける喜びにあるとおっしゃったけれど、自然と歴史がなければ、もう何も探して見ることができなくなってしまう。
(藤森)
 そうです。だからバウハウスも面白いのは最初の頃で、それ以後はみんな同じものになる。自然と歴史くらい多様なものはない。それを切ったら本当に何もなくなっちゃいますね。
(中村)
 それを切ってしまったのが現代だとすると、何か怖いですね。切った人は、切ったという意識があるでしょうけれど、その後の人は、それしか知らず、それが当たり前と思ってしまう。
(藤森)
 僕らの世代は、まだ自然と歴史を引きずったところで育ったけれども、今、本当に自然と歴史から切れたところで育つ人たちが出始めている。そうなると、もう自然も歴史も見えなくなるのではないかという不安がありますね。最近はエコロジーという言葉も安易に使われているので、中には、「水や緑の記憶はDNAの中に入っている」などと言う人も出てきますが、そんな非科学的な話はない。
(中村)
 一見科学的な言葉で非科学的なことを言うのも最近の傾向でしょ。気持ちはわかるけれども・・・。
(藤森)
 ということは、逆にそのことを意識してちゃんとやって行かないと問題が起きるぞということです。
 現代では、抽象化された情報の中だけで、実際に人間が生きることもできてしまう。そういう文明は、そんなことを全く知らない人たちが攻めてきた途端に滅びる。それは歴史を見れば明らかで、中国もローマも常に王朝は、蛮族によって滅ぼされてきたわけです。情報化した現代の大きな問題は、現実に、身体や実体を攻撃されたら手も足も出ないということです。情報の世界からでは、どうやっても現実の世界には対抗できないのです。
(中村)
 現実に起こる不測の事態に対処することができない。
(藤森)
 誰かの頭の中で考えたことしかできないわけです。
(中村)
 自然と歴史を引きずった側の人間としては、考えたこと以外にこそ、とっても面白いことがあると思いますけれど。
(藤森)
 それが基本です。
(中村)
 コンピュータの画面を見るのは単に「見」のほうで、今日のテーマにしている「観」は、不測のものがあるところで観るという意味ですね。不測のことには、天災なども含まれ、いやなこと恐いことも少なくないけれど、一方そこに思いがけなさや面白さがあるわけでしょう。今の科学技術計画でも、よく「安全・安心の世の中」などといいますが、そこで基本にしている“不測のことがあってはならない”という考え方に、私は疑問を感じる。そこでは、不測のことが起きたらマイナスにしか評価されない。
(藤森)
 不測はいかん、現実のものはいかんと。
(中村)
 生きものを見れば、それこそ予測不能性にこそ意味がある。明日どうなるのかわかっていたら生きていられない。でも科学技術の進歩は、予測不能性の中で、混乱が起きないように何とかしようという発想は持てない方向へと向っていると思います。
 昨日のニュースでも、鳥インフルエンザにかかった3万羽はもちろん、その周囲の鶏を全部焼却するという。感染性も低く人間にはかからないとわかっているウイルスです。それなのに、全部殺しますと言うと、素晴らしい、大変結構な対処ですとなるわけ。
(藤森)
 それこそ非科学的ですね。
(中村)
 自然界は、すべてある種の予測不能性を持っているわけですから鳥が風邪をひくこともある。その時にどう対処するかといったら、全部焼却するという。これは一番考えなくて良い対処方法ですよね。
(藤森)
 無しにするということですものね。
(中村)
 科学技術時代、しかも先端科学技術を生かした社会は想像力を奪っているんです。もちろん科学技術の恩恵はあるわけですが、そして建築の歴史の中でのバウハウスの活動といえば、私などむしろそういうものとして受け止めていたのですが、今日のお話で生命誌が最も検討しなければならない対象の一つとして浮び上ってきました。
5. 見て、探して、語る
(中村)
 自然と歴史を切るという考え方で20世紀は動いてきたかもしれないけれど、本当に切れるわけがありません。137 億年の宇宙の歴史、そこから続く地球、そこに生まれた多様な生きものという悠久の流れを観て、私たちがこの中で続いて行こうとするならば、やはり自然と歴史に目を向けて、そこから新しい価値観、世界観を引き出す他になく、その時期にきていると思う。藤森さんもおっしゃったように、科学は何でも切り捨てる。自然科学という時の「自然」は、自分たちでわかる範囲の自然なのです。それは、ガリレオやニュートンやアインシュタインが書いてくれた式の中で動いている限りの自然なのです。ところが生物学をやっていると、式に書けないものがたくさんあると実感する。バウハウス的自然科学では、生きものは捉えきれません。現実の多様な関係性や歴史性を含む実物としての自然や生きものを観るのが生命誌なのです。
(藤森)
 式は抽象の果てで、現在の自然科学はあまり人間が生き死にするようなものじゃないですね。実物を観ることにしないと。
(中村)
 そう。ゲノムプロジェクトの始まりは、ゲノムを知ることでまさにヒトという存在を知ろうとしたのです。ゲノム解析まではよい。その先どうするかは、また大量のデータを出すことではないはずなのですが。
(藤森)
 あれは国語辞典作ってるのと似たようなものですね。
(中村)
 そうです。辞書は必要です。ところが次も網羅主義になる。タンパク質を探るにも1個のタンパク質が体の中でどんな風に働いているかと見ないで、全部解析すれば何か答が出るだろうと、いきなりプロテオームと言って網羅する。お金の使い方としても、研究を進める過程の面白さとしても、生きものの研究は、まさに自然と歴史を踏まえた現場からのテーマを扱うものだと思うのに、今やプロジェクトで網羅するのが学問であるかのよう。博物学で試料を集めるにしても切り口が必要だったと思うし、切り口は現場感覚からしか出ません。
(藤森)
 個別の現場がなくなってしまう。
(中村)
 皆の意識の中から実物が消えてしまう。これが生物学で起きているのはまずい。
(藤森)
 辞書ばっかり作って、文章はさっぱり書かないと。
(中村)
 最初の辞書は必要だけれども、現場に戻って、生命現象を前に、個別の研究で見て探って、本当に面白いことが見えてきたらまた別の辞書も作ればいい。
(藤森)
 ずっと辞書作りに専念して、誰も現場を探さないというのは、地図を作って山に登らないというやつですね。登ったような気になって、「ここは高度何メートル、おっ谷があるぞ」と。
(中村)
 そこで、「観る」が大切だと思うのです。現場で実物を、見て、探して、語る。そこに、古くからあるのに、誰も気づいていなかったものを見つける喜びもある。究めるべきは観るという原点でしょう。
6. るつぼの中から観る
(中村)
 都市や建築の作り方は、周囲の自然や、その中で暮らす生きものとしての私たち自身にも、はかり知れない影響を及ぼします。私たちは、これからも人工の世界との関わり合いを続けながら、一方で、自然と歴史とのつながりを取り戻して行かなくてはいけない。そこをどう形にするかという時に、藤森さんの活動に関心が向くのです。
(藤森)
 僕は、屋根にタンポポ植えたり※註15、ニラ植えたりしていますけど、建築界では変なことだと思われています(笑)。ただ周りも、何となく気づき出しているところはある。僕の作る建物に本当に興味を持ってくれる建築家は、鉄やガラスで最先端の建物を建ててる人たちです。藤森がやっていることは変だけど、何か大事なことではないかと(笑)。それがどう大事になるかは、やっている私にはよくわからないです。
(中村)
 なるほど。みんな何か気づき始めているけど、まだ何やったらいいかわからなくて、戸惑っていることも確かですね。
(藤森)
 そうだと思いますね。そういう大きな指針になるようなものを客観的な形で出すのは難しいですからね。
(中村)
 やはりそういう時は、具体で行くのが一つの手だなと思いますね。
(藤森)
 そうですね。女の人はそういうことに敏感ですからね。やっぱりちゃんと生命を生むからだと思いますが、男はどうしても抽象的です。
(中村)
 建築学も生物学も、学問ではあるけれど、非常に日常的な面を持っているでしょう。そこは理論物理学と違って、常識の延長にあるんですよ。だから女性のほうが敏感なのね。
(藤森)
 それは思うね。そう常識の延長。
(中村)
 ゲノムは先端科学の象徴だけれど、それはそこ歩いている犬の中にあるじゃないということですからね。とても日常的なのです。でも今までの学問は、日常性をマイナスの価値にしてきましたね。
(藤森)
 素人っぽいというか。
(中村)
 そうですね。けれども今私たちは、自然の全部を考えなければならない時代に来ている。そういうことを扱う新しい学問を作ろうとしたら、流行の言葉を使えば複雑系ということになるのかもしれませんが、そこには、日常性を組み込まないと体系が作れないだろうと思う。
(藤森)
 そうかもしれませんね。
(中村)
 皆が路上観察を面白いと思うのも、そういうことではないかしら。日常性が入ってくると面白いのは、思いもかけない人がやってくることです。生命誌でも、生命科学だったら決して来ないような人が興味を示してくださる。特に芸術系の方が多いですね。
(藤森)
 芸術の人は感覚で捉えているから、どこかで続いていると感じるんですよ。
(中村)
 日常が日常だけではダメで専門性があったうえの日常性ですよね。だから日常性を通して両方の専門性の中にどこかで通じているものがあると感じることができるわけです。どこでどう通じているかは、分析的にわかるわけではない。そういうわかり方があって、それを具体化するのが日常性ではないか。学際とか融合とか言うと、専門と専門を結ぼうとするので難しい。間に日常が入ると多様な関心がそこに入り込めて、そのまま、るつぼの中で混じり合うようになる。これが大事だと思う。
(藤森)
 すると混じり合う中から、天才が出てきて、そこに形を与えてくれるんだよね。天才って、はた迷惑な連中だからどう出てくるかはわからないけど。
(中村)
 次の世代から天才が出て、全部を体系づけてくれたらさっぱりする(笑)。前を引きずっている人間にはこの体系づけがなかなかできない。
(藤森)
 新しい目で観て、間からスッと出てくる。それは、だいたい同時多発的に、ある国のある時期にドドッと出る。
註15:<タンポポ・ハウス>
1995年10月竣工。藤森氏の自邸。「なんで自分ちの屋根にタンポポを植えたんですか?-- 話せば一冊の本になるほど長いから、こうやって書いてみたわけで・・・、」その魅力は、『タンポポ・ハウスのできるまで』(朝日新聞社)に詳しい。
タンポポ・ハウス
クリックすると拡大図が見られます。
(中村)
 今がちょうどその準備段階のような気がして仕方がない。るつぼの中に、面白いものはいっぱいあるけれども、まだ形にならなくてもやもやしている。最近、藤森さんが『人類と建築の歴史』※註16の中で、20世紀をもって、いわゆる進歩史観による一直線の歴史が終ったとおっしゃったことにも重なってくると思うのです。
(藤森)
 人類は、歴史のある時点で、文化というものを生み出した。僕は、今の時代というのは、あの時期に近いと思う。これまで僕らが基礎にしてきた普通の意味での歴史や文化は、20世紀中にものすごい打撃を受けたわけですから、次がどうなるかという時期に来ていると思うのです。
(中村)
 私たちは、例えばギリシアなどの過去の時代を、外側から歴史として捉え整理された形のものを理解してギリシアの文化・文明を見ているけれど、その時、その場所にいる人には、何が起こっているのかわからなかったのだろうと思う。何か変らなければならない時だということしか。後から新しいものが生れた時代だったと評価されるわけでしょう。
(藤森)
 ギリシア時代には、合理的な思考も生まれましたが、神秘主義もすごかったですからね。不思議な状況です。
(中村)
 ちょっと今、そういう時期なのかな。新しい学問、文化の誕生に出会いたいと強く思うのですが、それにしてはそういう意識を持っている人が少なすぎますね。
註16:『人類と建築の歴史』
藤森照信著。 ちくまプリマー新書
7. 多様な文化的原種を蔵す国
(中村)
 ここ何年か、対談のテーマを「語る」、「観る」と動詞にしています。動詞にすると、誰が・何を・観るのか。観て・どうするのかという「問い」が生まれる。名詞で、例えば構造改革と言うと「ああ、そうですか」で終っちゃう。構造改革という言葉の中には何もない。でも「変える」と動詞で言えば、誰が何をどう変えるかという問いになる。だから今、動詞で考えようとしています。
(藤森)
 もうだいたいでき上がった結論が名詞形ですね。
(中村)
 動詞は必ず主語を求める。そうすると次に「考える」という動詞が出てくるんじゃないかと期待しているのです。
(藤森)
 今はみんな考えないで、結論を知りたがる。
(中村)
 過程を楽しむ感覚が減っている。途中が面倒くさいので、すぐに「一番いいのは何ですか」と聞きたがる。
(藤森)
 何でも商品を買うような感覚で、でき上がったものを欲しがるようになっちゃってる。
(中村)
 自分で何かを作り出す感覚を忘れている。だから今、動詞が大事だと思うのです。
(藤森)
 なるほど、身体ですね。
(中村)
 そうです。身体の動きです。身体は分析すればモノでできているけれども、そこに動詞がない限り何の意味もない存在でしょう。部品を全部並べたところで、藤森さんというものにはならない。やはり動詞があって初めて存在があるわけです。それで動詞を毎年テーマにしようと思った。
(藤森)
 生まれた時からじっーとしていたら、僕にはならない。
(中村)
 藤森さんは、「観る」人ですね。観て、いろいろと考えた結果、「作る」ことを始められたのでしょうか。
(藤森)
 僕は、作ることに自信もあったけど学生時代に転向して、観る人になろうと思ってやってきた。それが40歳を過ぎてから、たまたま生まれ育った村の神主の守矢家に伝わる史料を保存するために史料館を作るという依頼があった。それが実は、僕に名前を付けてくれた人の家だった。またそこに伝わる神事が、原始的で、普通の人には異様に映ることなのです。自分は、育った土地のことだから親しんでいるけど、その歴史を伝えるには、どんな建築が相応しいかを考えた時、これはもう他の建築家には頼めないから自分でやるしかないと思った。それで<神長官守矢史料館>※註17を作ったのが始まりです。
 長野県茅野市の村ですが、今でも6年に1度、神事で御柱を立てる時には、村人たちは夢中ですよ。僕は、そういう自然と歴史がつながった中で育った。近所に縄文の遺跡も山ほどあって、そこらで土器や矢じりを拾うのが男の子たちの楽しみでした。そういうことが日常とつながっている。でもそれが恵まれたことだというのは、実際に自分で設計をやるようになるまで気づかなかった。建築家って欲しい材料があるからといって、自分で山へ行って切って来ようとは考えないんですよ。すぐ、どこかへ電話して、誰かに届けてもらう話になる。僕は、今でも村へ帰れば、幼なじみたちが山の木を切ってくれるし、山から引き出すのも全部、一緒になって手伝ってくれる。その辺りはとても恵まれました。
(中村)
 子ども時代を過した村が、今でもしっかりと続いているとは羨ましい。私は東京生れなので、戦争と戦後の経済成長でほとんど壊されましたから。長野県には、今でもそういうつながりが多く残っているのでしょうか。
(藤森)
 そこらじゅうにあります。でも誰かが突然行っても、それはできないですね。森林組合があって、誰が山の木を切っていいかは決まっている。僕は、親父のおかげで切っていい人の側にいるわけです。普通だったら大変ですよ。
(中村)
 まずは、お前は仲間だと言ってもらうまでが大変ですね。
(藤森)
 田舎ですからね。でも、あまり田舎の村で育った人って建築家にならない(笑)。建築史やってる人が、20人くらい集まった時、田植えしたことある人いるかって話になって、1人しかいなかった。現代社会のふるいの機構は、“歴史と自然を深く蔵す人”を落すようにできているんだなと、その時つくづく思いましたね。
(中村)
 建築家のお仲間でも、そういう人は少ないですか。
註17:<神長官守矢史料館>
じんちょうかんもりやしりょうかん
2001年3月竣工。藤森氏による最初の建築作品。『タンポポ・ハウスのできるまで』(朝日新聞社)にその経緯が詳しく語られている。
神長官守矢史料館
クリックすると拡大図が見られます。
(藤森)
 少ないですね。ただ伊東豊雄※註18が同じ田舎です。彼はもう世界の先端ですね。先端と後端と両方を考えている。最近は、後端のほうにずっと揺れ始めて、自然や歴史への関心を持っている。この間、お墓を掃除した帰りに<高過庵>※註19へ寄ってくれたんだ。自分の家のあたりが見えると言って喜んでた。同じ場所で育っても、伊東さんと僕とが生れるのだから、風土はもうちょっと細かく言わないといけない。同じ風土の中でも何に興味を持ったかでぜんぜん違う。僕は、その辺の木や川や山が好きだった。伊東さんは、凍った諏訪湖が一番好きだって。凍った諏訪湖ってまっ平らで真っ白なんです。あれが好きだったって聞いて「ああ」と思った。
(中村)
 それが伊東さんの建築に表れていますね。ただね。この間、たまたまメキシコへ御一緒をして、その時、人間も自然の一部という生命誌の考え方に関心を持ってくださったんです。今度、福岡につくられた<ぐりんぐりん>※註20はこれまでと少し違うかも。
(藤森)
 心に何が滲みているかは個別に違うんで一概に風土なんて言っちゃいけないところはあるし、また一人の中での変化もあるし。
(中村)
 自然も多様、人間も多様、その関係も多様ということですし、人間は歴史の中にあると同時に歴史を作っていくものでもある。このあたりのダイナミズムがなんともいえず楽しい。
(藤森)
 文化の多様性みたいなものですね。
(中村)
 その多様性を産むためには、それぞれの地域が自分を支えるための“ある豊かさ”がないといけない。そういう意味で、地域を大事にしないと消えてしまいますね。
(藤森)
 種の多様性と同じですね。
(中村)
 多様な地域の文化を残していれば、そこからバウハウスの次が出てくる可能性もある。
(藤森)
 そうです。品種改良をする時にも、古くて病気に強い品種を使うでしょう。
(中村)
 原種に近いものですね。
(藤森)
 それが必要です。日本は、中国などに比べれば、各地で多様なままの文化的な原種をよく残している国だと思いますよ。僕の育った長野県は田舎だけれども、古い歴史や美しい自然を誇りにする伝統がずっとあった。僕らはそういう感覚の中で育ちましたから、今でも江戸時代の名前で、信州っていう。
(中村)
 今でも人々の心の中に藩が残ってますでしょう。尾張と三河は違うぞとか。今地方分権で、道州制の話がありますが、面白いと思う。日本は、経済的にも文化的にも、土地土地の人たちが独自性と強さを持っていた。そうすると、自然と歴史を切り、グローバライゼーションの方向に走ってきた都市時代、科学技術時代に対して新しい方向を出す潜在能力を持っている場として日本を考えるのは大事なことかもしれない。建築の中での藤森さん、生命科学の中での生命誌、共にその芽を作っていると自負してよいのかも。
註18:伊東豊雄 いとうとよお
1941年京城生れ。長野県下諏訪町で育つ。建築家。東京大学工学部建築学科卒。
建築作品に、シルバーハット、下諏訪町立諏訪湖博物館、せんだいメディアテークなど多数。授賞多数。著書に『風の変様体』『透層する建築』など。
註19:<高過庵> たかすぎあん
2004年6月竣工。藤森氏が実家の畑につくった“自家用”茶室。高床式住居。全高約10メートル。現在、この近くに<低過案>を計画中。
高過庵
低過案
クリックすると拡大図が見られます。
註20:<ぐりんぐりん>
正式名称は福岡市「アイランドシティ中央公園施設」で、愛称が「ぐりんぐりん」。2005年9月竣工。伊東豊雄設計。一本の長い帯が捩れて「∞」記号のような形を描くうねる緑の丘のような不思議な建築。内部は温室や展示室になっている。
 生命誌ジャーナル 2005年冬号
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