季刊誌「生命誌」通 巻19号 
生命の渦巻く形:鶴岡真弓×中村桂子
生命の渦巻く形
鶴岡真弓 立命館大学文学部教授
中村桂子 JT生命誌研究館副館長
  渦巻き文様
  反転のパターン−基本と変相
  異質なもの・新しいもの−その限界と無限の可能性
  文様の原理−エッセンスをミニマムに表現

ケルトの文物に繰り返し現れる渦巻き文様。それは、古代ギリシャにつながるヨーロッパ文化の本流からはみ出したものであり、人の意志の自由で強い表明だった。
DNAのらせん構造と同じように、生命の力を感じさせる渦巻き文様。
文様の世界と生物学が絡み合う。
渦巻き文様
中村―
『ケルト/装飾的思考』以来鶴岡さんのファンなのですが、日本の文様についてお書きになった『装飾する魂』にも登場する渦巻き。私は大学生の時にDNAの二重らせん構造を見て生物学に入ったのですが、らせんとか渦巻きを見ると、その動きが生き物を感じさせますね。
鶴岡―
まさに生き物。面白いのは、ヨーロッパで曲線文様や植物文様がはやったのが、ちょうど機械が発達してきた19世紀、直線的で幾何学的、秩序的なものを推進させていた時期だということです。パリ万博の機械館を改装して温室に再利用したことなど象徴的です。
中村―
なるほど。縄文土器の渦巻き文様は同じパターンではなく、少しずつ変化しながら全体としてバランスがある。これって、形の原点だという気がするのですが。
鶴岡―
アフリカ、アメリカ、ユーラシア。どの大陸の民族も文様の文化をもっていますが、ケルトと縄文のポイントは渦巻き文様です。文様は形のための形ではなく、人間の意識の現れですから、ここから人間を探れると思うのです。
中村―
ケルトと縄文という遠く離れた場所で、内から自然に出てくるものが同じというのは、意識の共通性を示している。
鶴岡―
そうです。渦巻きは、目に見えない手さぐりの意識プロセスがフォルムになっている。手さぐりで生命とか人間全体へ触手を伸ばし、全体と部分を面白く往復しているのが渦巻き文様で、まるで人間意識の縮図です。
前へ
次へ
反転のパターン−基本と変相
中村―
最近ゲノム(生き物の体を作っているワンセットのDNA)解析が進んだ結果、ATGCという塩基配列、人間だと30億もあるのですが、その中に同じパターンが繰り返し出てくることがわかってきました。最初の生き物がもっていたDNAを基本にして、それを繰り返し増やし、それをさらに少しずつ変化させてきた結果が現存生物というわけです。増やしては、全体としてのチェックをしながら。まさに手探りで部分と全体を往来しながら生き物はできてきたと言えます。昔の人はそれを直感で知っていたのでしょうね。
鶴岡―
パターンという単一性とその揺れやずれですね。ケルトの文様は、コイル状の単純な線だけでなく、反転のパターンがある。弾みと名付けたのですが、外へ飛び出したり、また入ったり、右へ行き、左へ行き……。単一性から逃れようとして複雑化していく。他の民族にない発想に驚きます。人間の体のようなブヨッとした感じを含めて、これほどオーガニックなものはほかにはない。ここに魅せられました。
中村―
DNAを分析すると、機能している遺伝子と遺伝子の間に、意味の読めない部分がたくさんある。さまざまな可能性を探った努力の跡かもしれません。たとえば人間という新しい可能性を生み出す途中必要なものだった。不要のようで必要な部分です。ケルト文様が、右へ左へと探るのと似ていますね。
鶴岡―
なるほど。ケルトの文様でも、記憶としての部分、意識としては見えない中間部分を省略すると、まったく違ってしまいます。ヨーロッパの伝統的な絵画では、描いた「図」に対して背景は「地」というようにはっきりさせますが、ケルトの場合、「図」と「地」の区別がなく、その時の見え方で容易に反転する。全体が有機的に一つで、いつも「転倒」の運動性の中にあるのです。
中村―
現代人は有用なもの、つまり「図」だけを見過ぎて世界を狭くしている。生物でも、はたらいているDNAだけを集めたら無駄がなくていいと思いますが、そうしたら恐らく生物でなくなってしまうでしょう。
鶴岡―
西陣織でも、反転する表裏の意識がある。表だけでは織物は出現しませんよね。文様は無言ですが、こっちが興味をもてば語りかけてくる。記号ではなく、生き生きと語る言葉だという気がします。
中村―
全体として語りかけてくるものですね。
前へ
次へ
異質なもの・新しいもの―その限界と無限の可能性
鶴岡―
日本の場合、漆、蒔絵、金工、織物などとともに、多くの文様が大陸から入ってきて、いいところだけ採って日本のパターンにした。借り物ですが、いい意味ではインターナショナル。異質なものを変奏していく進取の精神があります。排除するのではなくどんどん採り入れ、吟味しつつ、自分のものにしていくところは現代でも生かしていけますね。
 ケルトの聖書写本『ダロウの書』の中の渦巻文様。
 植物文様の変貌。ギリシャやエトルリアの「パルメットとロータス」の植物文様がケルト人によって「ケルト渦巻文様」へと変化していった様子。(「ガリア人展」カタログより)
クリックすると拡大図が見られます。
中村―
生き物がまさにそれ。新しいものがどんどんできてくるけれど、そうかといってとんでもないものはできない。全体性を壊さないものだけが残る。どんなに斬新でも基本の形を崩すものは死につながります。でもそれは限界ではなく、無限に広がる可能性をもっている。文様の面白さは、無限増殖することだとお書きになっていますが……。
鶴岡―
ケルトの場合曲線を愛用しましたが、その曲線はどんどん形を変えていきました。キーワードは「変容」です。ヨーロッパには、キリスト教の直線的時間観や近代の素朴な進化論や発展史観のように、ギリシャ・ローマを起源とし、すべてをそこへ還元する考え方があり、どこまでも直線的に全部整然と説明をつけていこうとする。その中で、辺境に追いやられたケルト人たちは、歴史の外に置かれます。変容のプロセスを真摯に表明するものは、アナーキーで危険だし、訳がわからなくて意味づけできないとみなされた。でもその意味づけをする基準を時々ゆさぶってもよいのではないか。西洋美術史から出発した私は、そこに疑問を感じていて、ケルトの文様に出合ったとき、あっ、やっぱり歴史で語られなかっただけで、こういうものがあったのだと納得したんです。
中村―
一本線で来たヨーロッパ中心型の価値観は、今揺らいでいますからね。生物学でも、人間という素晴らしいものに向かって一直線という発展史観があった。ヒトが一番。しかし、アリはアリ、松は松なりに歴史をもち、特有の生き方をしている。生き物を多様なまま認めて、その歴史や関係を探っていこうとするのが生命誌です。人間も、近代ヨーロッパは、合理的で、直線の世界かもしれないけれど、基本には渦巻き文様もある。おおもとは同じじゃないかという気がするのですが。自然界はけっして直線ではありませんしね。
鶴岡―
そうですね。人間の思考や、意識の形が文様に現れているとすれば、みな等価値にあると思います。ギリシャ人も神秘的な世界観をもっていたけれど、見えないものを見えるようにするという人間の主体的な理知の側面を論理化した。ところが、ケルトは、見える世界と見えない世界の中間のゾーンを激しく往復している存在を、神話などで語ったのです。しかし、12世紀にアングロ・サクソンに征服されて、次第にこの文化は歴史の表舞台から消えていったというだけです。
前へ
次へ
文様の原理―エッセンスをミニマムに表現
中村―
科学は、自然の中から扱いやすい部分を切り取って調べ、考えてきました。DNAの解析など大きな成果をあげましたが、反対に全体は見えない。でも、そろそろ人間とは何か、生きてるってどういうことか、自然とは何かという全体を知りたいと思うところにきました。それにはどうしたらいいか、切り口を考える時期です。鶴岡さんは、文様という切り口で、人間全体や自然を見ていらっしゃるので、そこが参考になるのです。
鶴岡―
文様の原理は、エッセンシャルなものをミニマムな空間で表現しようという、人間の表現能力の一つの極みのようなものだと思います。たとえば、唐草文様の、曲線の蔓様の表現は、植物に関する人間の感じ方、生命に対する人間の見解ですよね。また、水や流水の文様は、手で触れる感覚や、水の怖さやありがたみなど人間感情の一切を含んでいる。煮つめたエッセンス、認識や抽象的な思考の産物であり、思いつきの点や線ではないのです。
中村―
ですから、一つ一つの文様の現れが、科学が明らかにする、これが生き物なんだという基本を出しているような気がするのです。縄文の文様を見ると、結局、縄文人は本質がわかっていたから、こういう迫力のあるものが作れたのだと思えてくる。
鶴岡―
西洋風の絵画の型にはまらず、心にゆとりがあって、自然を観察したりする豊かな遊戯の気持ちがあればあるほど、こういうものができる。われわれもやれるかもしれないという予感に満ちてますよね。
中村―
そう。西洋型の理性的認識法の中に消えたかもしれないけれど、本来根源的なものなのだから、その気にさえなればまた戻ってくるはずでしょう。
鶴岡―
今はコンピュータ時代で、視覚、つまり見ることで認識することが多いのですが、中世までは神の声を聴くというので、聴覚が上位だった。最後の情報として触覚、触るということがあると思います。工芸やクラフトは、アートと比べて低級だという近代の美術史の考え方がありますが、じつは、視覚と触覚の両方で体に迫る美しさがある。
中村―
あらゆる分野で五感全部を通して捉えていくという願望と試みが戻ってきていると思います。抽象的な情報やこころも物の中に込められますしね。
 織成館(京都西陣)で。後ろの着物は、江戸時代の能装束の復元。織り込まれた蝶の文様は、一匹一匹すべて違う。
 着物の直線的な文様は、日本の伝統(織成館)。
鶴岡―
工芸やクラフトを彫刻や絵画という美術の王道に対して復権させていくのと同時に、装飾美術や文様を考えていかなければならないと思います。定型に頼るのではなく、自分の気づきとして現れ出てくるもの、そういう意識で描いたり、織ったり……。
中村―
抽象的な文化としてだけでなく、日常生活を豊かにするのが文様であり、装飾や、工芸ですからね。
鶴岡―
「文」という漢字は、人間の体に入れたバッ点、つまり入れ墨で、人間が体まるごとで自然と関わっていた時に、生きている印として、また死んでいく人への鎮魂のためにあったのです。人間の生死、幸不幸、運命に関わっている。人間の体を通して文様と生命誌とがつながっていく。今日お話をしていて何かが通っている。勉強しようと思いました。
中村―
私もとても面白かった。文様という切り口から見えるものについて、自分でも考えてみます。
(写真=遠藤祐司)
前へ
(つるおか・まゆみ)
1952年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科修了。ダブリン大学トリニティ・カレッジ留学。現在、立命館大学文学部教授。古代ケルト文様の研究をスタートに、人が装飾することの意味を追っている。
Talk

CLOSE

Javascriptをオフにしている方はブラウザの「閉じる」ボタンでウインドウを閉じてください。