かつて、このような形で生き物の「美」を追求した写真家がいただろうか。
特異なカメラ・アイが切り出す生き物たちの知られざる表層と、作家の心の軌跡。


① ムツアシガメ クリックして拡大 ② ナイルワニ クリックして拡大 ③ コシャモ クリックして拡大 ④ マダガスカルミドリヤモリ クリックして拡大 ⑤ アジアゾウ クリックして拡大 ⑥ シロフクロウ クリックして拡大 ⑦ リスザル クリックして拡大

忘れられない光景がある。サーカス小屋のあった広場の真ん前の路地を入った突き当たりに、かしわ屋さんがあって、薄暗い店内の奥で、主人がナタのようなもので鶏をバッサリやって、羽をむしり肉を切り刻んでいる。寒いぼの肌の黄色い足が、うず高く積み上げられ、そばに血管の走った骨が無造作に投げられている。ブリキのバケツに選別された内臓が、ごそごそ蠢(うごめ)いている。表に並べられた真っ白い卵が、春の陽射しを浴びて微熱に浮かされ、殻が破れて何かが飛び出してきそうな、そんな予感を秘めている。十(とお)に満たなかった頃の記憶だが、「肉」と「骨」と「卵」が奇妙に交じり合った、その生命の息苦しさに震えがきたことを昨日のように覚えている。

この10年ほど、動物の写真を撮りつづけてきた。それは、動物の属する生きる場所としての背景をすべて捨てて、形態と色彩だけを純粋培養して取り出し、生き物の細部に潜む生命記憶のドラマを描写しようという企てでもあった。望遠レンズ越しに、いろんな肉を見た。晴れがましい肉は、燃えでるような色彩と壮大な構造美を誇っていた。一つ一つの細胞がごうごうと凄まじい音を立てて振動している。その生き物固有の振動数とでもいうべきものが、多様な肉の風景を結んでいる。だが、真っ赤に燃える鶏のとさかの輝きは、永遠のものではない。肉は変容する。肉の上に何かがやって来て、ふっと付いてしまう。それは、「腐」という象形文字の意味するところである。肉の上におとずれるもの、それは風のように魔的なものであり、そのおとずれがあったことは、そこに結ばれた異様な光景を通して、初めて感知されるのである。張りつめていた形が崩れ出し、流れが滞り、腐敗が始まる。

私が十を過ぎたあたりに死んだ、おばあちゃんの、いかようにも名づけることのできない死の相を目のあたりにしたとき、肉の崩壊と鉱物への兆しをおそるおそる感じたものだ。「肉の具体」が溶けて「骨の抽象」へと向かいはじめる。「肉の悲哀」が「骨の楽天」を望む。救済。骨は原始生命スープに溶け出し、熱力と電気力が「卵」を発生させ、「卵」の中で胎児は数十億年の生命記憶のドラマを再現し、夢見る。

私は「肉」に始まる輪廻の物語を想う。この壮大な、生命への「おとずれ」と「むすび」のドラマこそ、腐敗の本質であり、物質の赴きであり、私が写真に実現したく願っている当のものである。

おおにし・なるあき
1952年、奈良県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。在学中より、実験映画製作を始める。1978年より5年間、工作舎でオブジェマガジン『遊』の写真スタッフを務める。のち、フリーに。写真集『象の耳』により1993年度日本写真協会新人賞受賞