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今回から、中村桂子・生命誌研究館副館長がホストになって、各界の弁達と「生命誌」をサカナに楽しいおしゃべりをしてもらいます。第1回は、科学の物語性を説いている東北大学の野家啓一教授です。


中村―

20世紀中ごろに分子生物学が始まって以来、生物学は生き物を分析的に見るようになりました。しかし、そのような視点だけで、生き物が本当に把握しきれるのだろうかという疑問もあります。野家さんは、科学の歴史の中で現代生物学をどう位置づけられますか。

野家―

博物学としての生物学は、 もちろんアリストテレス以来の長い歴史を持っていますが、今日使われている「バイオロジー(生物学)」という言葉は、19世紀の初頭に確立したものです。そして1860年代にはダーウィンの進化論、さらに1950年代にはDNAの二重らせん構造の発見というように、生物学は大きなターニングポイントを迎えます。

大まかな歴史をたどってみると、やはり生物学は生物の多様性の理解よりも普遍性や統一性の追求、少数の基本法則を見出しながら生命現象を説明していく方向に進んできたことがわかります。つまり、もともと生物学の中にあった生命の多様性を見る目というのが物理学的方法の中に吸収され、生物学が本来持っていた生命的な自然との接し方が、今世紀に入ってからどこかで見失われてきたような気がするのです。

中村―

人間の知りたいという本能の中には、すべてに共通の事柄を知りたい気持ちと、さまざまなものの違いを書き記したい気持ちとが混在しているように思うのですが。

野家―

そうですね。19世紀以前の生物学は、「ナチュラル・ヒストリー」といって博物学系列の学問でした。「ヒストリー」はふつう、歴史と訳されますが、もともとはギリシャ語の「ヒストリア」に由来する言葉で、人間の知的欲求に応える「探求された事柄の記述」という意味を持っています。「ヒストリア」はどちらかというと多様な知識をそのままに書き記すわけですが、一方で哲学と訳されている「フィロソフィア」は普遍的な基本原理の探求を意味していました。その両者に、中村さんがおっしゃるような人間の基本的な知的欲求の二つのパターンが現れているように思います。その欲求が自然に向かったとき、「ナチュラル・ヒストリー(自然史)」と「ナチュラル・フィロソフィー(自然哲学)」に分化したのではないでしょうか。

中村―

じつは、 生命科学から生命誌への移行のきっかけの一つは、遺伝子DNAがゲノムという塊として見えてきたことでした。DNAという、物質としては全生物に普遍な存在でありながら、それが表現するものは、ヒトでありイヌであるというように多様です。ここに統一と多様という離れ離れになった欲求を、共に満たす存在が見えてきたという気がして、ちょっと興奮したのです。従来の科学は、自然哲学の延長で統一を追求してきたわけですが、それをつきつめていくと自然史的なものに行き着いたのですから、学問の歴史としても興味深いと思うのです。

野家―

ゲノムというのは、いわば構造体の中に進化の歴史が蓄積され書き込まれていて、それがときに応じて読み取れるという非常に面白い存在ですよね。物理学的方向に収斂されてきた無時間的な自然科学の中で、時間とか歴史の問題が入ってくるのは、熱力学とビッグバン理論と進化論ですが、もし進化論の時間が歴史というかたちでゲノムの構造の中に入っているとすれば、先ほどのヒストリーとフィロソフィーの交差点が見つかるかもしれません。近代に入って自然哲学はガリレオからニュートンの流れとなって数学的物理学に結実しましたが、自然史のほうはベーコン、ヴィーコ、ルソー、ゲーテなどの中に細々と受け継がれてきたにすぎません。両者の流れが再び出会うことができれば、新たな学問の可能性が開けるのではないかと思います。

中村―

知るということの基本に戻って、 学問を見直すきっかけにもなりそうですね。ゲノムが意味を持つのは、それが細胞の中にあるときだけです。細胞の中にあって、その歴史を読み取って初めて生き物が誕生します。これが発生です。こうして生まれた生き物が進化を続けていくのです。結局、生き物の基本は細胞だと再確認し、今、細胞に関心を持っています。

野家―

今のお話を哲学的にいえば、 ある構造が機能を発揮するためには、たんに統一的な原理や法則だけではなく、その構造体が能力を発揮するための必要条件を備えた特定の「場」が必要だということでしょう。細胞という場は、まさに生命がはたらき、生命が発現するトポスなんですね。中村さんが提起された「バイオヒストリー」という言葉は、伝統的なナチュラル・ヒストリーにつながると同時に、物理的構造体の中に生命の歴史を読み解くという意味で、構造と歴史の交差点を表現する非常にインパクトのある魅力的な言葉だと思います。

中村―

総合となると、 不可知的なものがからむことがありますが、とにかく徹底分析したら何が見えてくるか。それが野家さんのおっしゃる、構造、時間、トポスなどという言葉にどう結びつくかが楽しみです。

ところで、生き物が生きることでゲノムが解読されていきます。その結果見えるものは、きれいな花だったり、鳥の鳴き声だったり。私たちは自然を観察し、その感動を音や文学や色で表現しますが、ゲノムの表現を見るとそれ自体がマルティメディアなのです。

中村―

物語るということにもっとも遠いのが、 今までの科学でしたが、野家さんは科学を物語として考えていらっしゃいますね。

野家―

私はフランシス・ベーコンに興味を持っています。彼は近代合理主義の権化だと思われていますが、よく読んでみると必ずしもそうではない。彼が確立した帰納法も、そもそもはナチュラル・ヒストリーのための方法論であり、その目標を彼は「自然の解釈」と名づけています。ところが、自然の多様性を物語る方法としてのナチュラル・ヒストリーというベーコンの問題意識は、近代科学の成立過程で切り捨てられていきました。それを現代において復権できないか、というのが「物語としての科学」で考える一つのきっかけでした。

科学の本質は真理の発見ではなく、自然を解釈するコスモロジーの発明ではないかと私は考えています。その意味で、科学はまさに、人間の自己理解のための物語を紡ぎ出す「制作」行為にほかなりません。科学を一種の「物語行為」として見直すこと、これが私の現在の問題、関心です。

中村―

生命誌の「誌」という文字にも「物語」という気持ちを込めたのです。科学の場合、客観、論理、事実などが浮かび上がるために、それが人間の行為であることが忘れられてしまいがちです。ゲノムの中に書かれた物語、生き物の示す物語を読むという意味と同時に、科学を伝えるときに物語ってもよいのではないかとも考えているのです。「物語」というのもふくらみのある言葉ですね。

生物の進化には、さまざまな物語が隠されている。画家、橋本律子氏に依頼して生命誌研究館が制作した新しい進化系統図

(のえ・けいいち)
1949年仙台市生まれ。東北大学理学部物理学科卒。東北大学文学部教授。著書に『哲学の迷路』(産業図書、編著)、『物語』(現代哲学の冒険第八巻、岩波書店、共著)など