「いのち」という言葉の中には、そのものの精髄というような意味合いが含まれている。もともとは「いのちほど大切なもの」という比喩から生まれたのだろうが、 面白いことに「こころ」にもそうした使い方がある。そもそも「精髄」の「精」は「精神」のそれで、やはり「こころ」だろう。

「いのち」と「こころ」とが何ほどか重なるというのは日本語にかぎらない。アリストレスは、いのちを持ったものは「エンプシュコン」、持たないものを「アプシュコン」と呼んで区別したが、ここでの「プシュコン」は誰でもわかるように、「サイコロジー」の語源となった言葉と同じである。

そこで、というわけでもないが、気にかかっていることを一つ書く。「いのち」への実験の中で、生理的な(つまり物質系としての)安全性に対しては、我々はずいぶん慎重である。新薬の開発などでも生理的危険がないかどうか、いろいろなかたちで、いろいろな段階に応じて、歳月と手間をかけた慎重なテストが要求される。ところが「こころ」への危険ということになると、我々は意外に大胆である。教育でも医療でも、何かを新しく試みることは、それがどのような作用を子供たちの「こころ」に与えるかわからない「実験」を課していることになるのに、そうした意識を持っている人に出逢うことが少ない。

ほんとうは「こころ」の「いのち」にも、「からだ」の「生命」と同じかそれ以上の配慮が必要なのではないだろうか。

(むらかみ・よういちろう/東京大学先端科学技術研究センター教授)