狭くて広いウナギ研究

「動物はなぜ旅をするのか?」研究人生のほとんど、この問いに向き合ってきました。僕は生き物の動く姿が好きなんです。でも個体の中へあまり深く入っていきたくはありません。生きものをすりつぶして、遺伝子にしてしまったら単なる分子に過ぎないでしょ。ひとつの個体がどんなふうに生きて、どう振る舞うかが面白いのです。行動学をやるときに擬人化することは厳に慎めと言われますが、僕はどうしても「なにを考えてこんな行動をしているのだろう?」と感情移入してしまうのです。そこが普通の行動学の人とは違う点じゃないのかな。

アユやサクラマスなど、海と川を行き来する通し回遊魚の生態について幅広く研究していたのですが、ふと気がついたらウナギにどっぷりはまっていました。ウナギにはあまりにも未知の部分が多かった。ウナギの産卵生態は言うに及ばず、分類、形態、系統、進化、集団、生理、行動まで、やるべき事は山ほどありました。ウナギという単一魚種にこだわりましたが、分子、ポップアップタグポップアップタグ親ウナギに装着して回遊水深や水温の情報をとる小型のデータロガー発信器。データ取得後海面に浮上し、衛星経由で情報を転送する。、シミュレーションなど最先端の手法であらゆる研究分野を研究してきました。もちろん僕一人ですべて網羅することは出来ません。さまざまな分野の研究者との協力と研究室にやってきた意欲ある学生たちの活躍があってこその話です。

2009年の5月、やっと待望のニホンウナギの卵を発見することができました。2005年に、生まれて2日目の仔魚が採集できた時には、産卵場探しの冒険的調査の時代は終わったと方々に書きましたが、産卵場調査の本当の意味での一段落はこの卵発見の時でした。太平洋のウナギ産卵場調査は東京大学海洋研究所が主体となって1973年に始め、以来、より小さな仔魚を探し続けて調査をくり返し、36年かかってようやく最終ゴールの卵に行き着いたわけです。卵が発見された場所はその時の産卵地点をピンポイントで示しているわけで、卵の分布する水深から親ウナギの産卵する条件も推定できます。

ウナギの産卵場調査には、ウナギの生物学に興味のある水産学や生態学の研究者だけでなく、様々な分野の研究者が協力してくれました。例えば、海流がわからないと僕らは産卵場の位置を予測できないでしょう。また地学の方々にフィリピン海プレートの成り立ちや磁気異常・重力異常のことなど教わらないと、ウナギの大回遊の進化過程や、なぜ広い海の中でほんの限られた狭い範囲で産卵するのか理解できません。つまり今回のウナギ卵の発見は、海洋学のひとつのモデル研究として、海洋研究所がもつ海洋科学の総力を結集して得た到達点といえます。

ニホンウナギの卵。発見時はシャーレの中で卵膜が虹色に輝いて見えた。

学術研究船白鳳丸にて全国のウナギ研究メンバーと(右から4人目:本人)。

ジェネラリスト

生まれは、岡山県の玉野市で、瀬戸内海の海岸まで自転車で15分ぐらい。自然の豊かな中で、裏山に秘密基地を作ったり、竹ひご飛行機や凧を作って遊ぶ腕白坊主でした。他に、ビー玉、メンコ、にがし鬼、けんけん、うまのり、すもう、缶蹴りなど、季節々々の遊びには事欠きませんでしたね。

父は三井造船の設計技士で、工学的な考え方を持つ人でした。祖父も呉の海軍工廠に勤めていて二代続いた造船屋でした。父は家で余り仕事の話をしませんでしたが、ボールペンをもらった時の言葉をよく覚えています。子供だから嬉しくて「カチカチ」ノックして遊ぶでしょう。そしたら「ノック1回で、寿命の何分の1かを使ったことになるんだ」と言われたんです。その頃、僕は工学という言葉さえ知らなかったけど、「ああ、そういう考え方があるんだ」と妙に感心しました。

母親は今でいう教育ママとはちょっと違う意味で、教育熱心でした。小学校4年になって、同級生が皆、塾に通い出し遊び相手がいなくなって寂しかったんでしょう。「僕も塾に行きたい」とせがんだら、「塾はだめ、バイオリンならいい」と言われ、はずみでバイオリンを習うはめになってしまった。いやいやでしたが、中学になるまでは続けました。

勉強は余り好きじゃありませんでしたが、まんべんなくある程度、器用にこなすタイプで、特に好きな教科はありませんでした。結局スペシャリストにはなれず、いつもジェネラリストかな。一つのことを深く掘り下げるよりも、いろいろなことを組み合わせるのが得意なのは今も変わりません。

高一の夏、クラスメイトに誘われて入ったクラブがESS(英会話クラブ)でした。英会話を学ぶという本来の崇高な目的など微塵も念頭になく、ただただ瀬戸内海の島で夏合宿をする、キャンプファイアーが楽しいという友人の話に即入部を思い立ったんですねえ。しかしそこで尊敬する先輩や心を割って話し合える親友に巡り会い、ずいぶん社交的になりました。その反面、クラブ活動に入れこみすぎて成績はガタ落ち。これはいかんと気づいたのが3年生の勤労感謝の日で、大学の一次試験まで残すこと3ヶ月。さすがに焦りました。受験日までの勉強の計画を立てても、どうしても日数が足りない。それでも部屋に籠もって、勉強しました。願書を出す段階で担任の先生のすすめもあって、浪人覚悟で東大を受験することにしたら、なんと現役で受かってしまった。運が良かったんです。

一応理系かなという程度の気持ちで、進路の選択肢が多い理科Ⅱ類を選びました。理科Ⅱ類は、農学部と理学部が中心だけど、医学の道も選べる。要は、決定を先延ばしにしていただけなんです。結局、「これだ」という進路を決めきれないまま、農学部の水産学科に進みました。今思うと、理由はただ単に船に乗って海に出てみたかったから。しかし、やはり父親の影響もありましたし、ジュール・ベルヌの「海底二万マイル」への憧れもあったと思います。教養の人類学の講義で習った南の島の古代文明への憧れも手伝ったのかもしれません。

満1才。

小学4年生。夏休みにミルク缶で作ったロボット。

母と弟と(左端:本人)。

高校3年生の頃。

大学3年生の臨海実習。渥美半島の東京大学伊川津水産実験所にて。

野外へ出る

水産学科では魚類生理学で有名な日比谷京先生日比谷京東京大学名誉教授(故人)。
魚類生理学の権威。
の研究室に入り、卒論でカレイの体色変化を研究しました。市松模様の水槽に入れたカレイがどんな模様に変化するのか調べるのです。実験室で行う生理学もおもしろいとは思ったけれど、やはり海に出てみたいという気持ちが捨てきれず、大学院では海洋研究所に行きました。大学院に進んだのは、研究をもっと本格的にやってみたいという漠然とした希望の他に、当時、東大紛争で全く勉強できなかったので、このまま卒業したのでは、大学に来た意味がないという思いもあったためです。

海洋研に入って、さあ、今度こそ海に出られるぞと思ったら、指導教官の梶原武先生から「君、これを使って何かやりなさい」と見せられたのが「スタミナトンネル」という魚類の遊泳装置です。この装置は水流の速さを変えて魚に様々なレベルの運動をさせることができます。運動時の酸素消費量がはかれますし、魚体に電極をさしておけば、泳いでいる時にどこの筋肉がどんなふうに働いているかもわかります。「遊泳生理学」という分野です。魚類の遊泳運動の原理原則を理解するのが目的ですから、材料は魚なら何でも良く、ブリ、コイ、アユ、サバ、アジなど様々な魚を使って実験していました。遊泳生理はとても地味な分野で、当時の日本では僕の他、1,2名しかやっていませんでした。

ここでもジェネラリストぶりが発揮されたのか、研究を続けるうちに段々面白くなってきました。次第に成果も上がってきて、1980年には、何とか学位論文にまとめることができました。

しかし、スタミナトンネルの中で泳ぐ魚たちを見ているうちに、疑問がわいてきました。これは果たして正しい自然な遊泳の姿なのだろうか? 無理矢理泳がされている受動的な動作なのではないか? そこで僕は、自然の中で能動的に泳ぐ魚の姿が見たくなって野外に出たんです。「稚アユの放流実験をやっているところが大分県にある。」という情報を得て、大分県安心院町の津房川に出向き、川に潜って魚をつぶさに観察しました。すると実験室の魚の姿とは全然違うのです。自然の中で見る魚は立派で、生き生きと振る舞い、気のせいか眼差しさえ鋭く見えるのです。稚アユが一心不乱に川を遡上する姿をみていて、なぜあんなにも一生懸命に上流を目指すのか、その理由を知りたくなりました。これが魚の回遊研究にのめり込むきっかけになったのです。

日比谷先生(左端)と研究室旅行(下左端:本人)。

研究室の先輩と山登り(本人:右から二人目)。

大分県津房川にて魚を観察。

世界デビュー

海と川を行き来する通し回遊魚には3つのタイプがあります。まず、サケのように産卵のために海から川を上がってくる「遡河回遊魚」、ウナギのように産卵のため川から海へ下りていく「降河回遊魚」、そしてアユのように産卵とは無関係に海と川を行き来する「両側回遊魚」です。繁殖は生物の生活史の中で大切な現象ですから、これに伴って生理、生態、形態、行動などあらゆる面で大きな変化が起こります。だから回遊現象の研究には繁殖はむしろ邪魔で、なぜ回遊するかという問いへの本当の答えを覆い隠してしまう場合があります。そこで、まず産卵と関係なく回遊するアユを研究材料に選びました。

本格的に野外で調査を始めたのは、遊泳生理の仕事を博士論文にまとめた後の1982年、海洋研の助手をしていた頃です。琵琶湖に通い、こつこつとアユを採集してその回遊生態を調べました。琵琶湖には通常のアユより小さな体のまま親になる”小アユ”がおり、その流入河川には普通サイズの親にまで成長する”大アユ”がいます。小アユはその一生をほとんど湖の中だけで過ごし、大アユは春先から夏にかけて流入河川に遡上するので、両者の違いを調べれば、なぜ回遊するのか、なぜ回遊しないのかがわかると思いました。

当時は、大アユと小アユはこれから別種に種分化していく初期段階にあると考えられていました。事実両者の形態や卵サイズは明らかに違っているんです。さらに決定的なことは、小アユが8~9月にかけて早々と産卵するのに対し、大アユは通常のアユ同様、産卵は10~11月で、両者の産卵期ははっきり1~2ヶ月ずれています。産卵する場所も違います。つまり、完全に生殖隔離が成立していて、遺伝子の交流はほとんどありません。種分化しつつあると考えるのがむしろ自然です。

実は僕は耳石を使って、大アユが湖から流入河川に遡上してくるときの齢を調べていました。耳石は、魚の内耳にある、主に炭酸カルシウムで出来た硬組織です。木の切り株の年輪のように、魚の成長と共に一日一本ずつ”日輪”が増えていくんです。これを数えることで日齢がわかりますし、その魚が捕れた日から日齢を引けば、個体の誕生日がわかります。魚の履歴書と言えます。アユの場合ひときわ美しい日輪をその耳石に刻むので、正確に日齢を推定できるのです。

調べてみると、まず前年の産卵期のうち、8~9月の早い時期に生まれた個体が翌年3~5月に流入河川へ遡上し、大アユになることがわかりました。逆に、10~11月の遅い時期に生まれた個体は、湖内に残って小アユになることもわかりました。つまり、孵化する時期の早い遅いが、河川に遡上するか、湖内に残るかを決めていたのです。

ところで、小アユは遅く生まれ、早く産卵して早く死ぬので、寿命は1年より短い10ヶ月あまり、逆に大アユは早く生まれ遅く産卵するので1年より長い14ヶ月ほどになります。それなら両者の産卵期は年々ずれていくはずですが、実際は毎年同じです。 この矛盾に悩んだ末、ある時ハッとひらめきました。小アユの子供が大アユに、大アユの子供が小アユになる、つまり世代ごとに両者が切り替わると考えればすっきり説明できると。

この論文を1986年の米国ボストンで開かれた第一回の回遊魚のシンポジウムで発表しました。発表が終わったとたん、質問攻めにあいました。無名の自分の周りに人々が集まり、シンポジウムのキーノート・スピーカーのマート・グロスマート・グロスカナダのトロント大学教授。
魚類の行動生態学、進化生態学が専門。
やボブ・マクドワールまでもが、「君の研究をもっと知りたい」と夕食に誘ってくれるのです。実は、ほぼ同じ内容で日本の学会でも発表していたのですが、まったく評価されなかったのです。定説の壁は厚く、それに真っ向から挑む内容を認めてくれる人は当時日本にはいなかった。けれども世界は受け入れてくれた。今では、「スイッチング・セオリー」と呼ばれています。この時の経験は大きな自信に繋がり、その後ますますフィールド研究の面白さに惹かれていくことになりました。

アユの耳石。赤丸は孵化した時点を示す。

「スイッチング・セオリー」が掲載されたシンポジウムの論文集。

川から海へ

大分県の川や琵琶湖でアユを研究しているうちに、関心が川から海へと広がっていきました。アユは海でどのように暮らしているのだろうか、他の回遊タイプのサケやウナギの生態も知りたい、そして3タイプの回遊生態を比較すれば魚が回遊する本当の理由がわかるのではと、思いが広がったのです。そこで、遡河回遊魚ではサクラマス、降河回遊魚ではニホンウナギを選んで研究を始めましたが、結局次第にウナギが中心になっていきました。ウナギの生態に謎が多かったのと、大学院時代にウナギの産卵場調査航海に参加した経験があったからでしょう。

ウナギの産卵場は長い研究の歴史があります。1922年、大西洋のヨーロッパウナギとアメリカウナギの産卵場がサルガッソー海にあることはデンマークのヨハネス・シュミット博士によって発見されましたが、太平洋のニホンウナギの産卵場については全くわかっていませんでした。日本では1930年代頃からニホンウナギの産卵場の探索が始まったようですが、最初の仔魚(レプトセファルス)が見つかったのはずっと後の67年になってからのことです。しかもそれは全長50mmを越える相当大きな仔魚でした。精度よく産卵場の位置を推定するには、生まれて間もない仔魚を採集する必要があったのです。73年に、全国の研究者が集まり、海洋研の白鳳丸による大規模な産卵場調査航海が始まりました。第2次航海では、台湾の東方海域で40~50mmの仔魚54匹を採集するという大きな成果をあげました。当時大学院生だった僕もこの航海に参加して、来る日も来る日も大きなプランクトンネットを曳き、毎夜毎夜採集されてくるウナギの仔魚に興奮したことを憶えています。

86年、指導教官の梶原武先生の退官を機に、先生を首席研究員とするウナギの産卵場調査航海が実施されました。当時、同じ研究室の助手仲間だった大竹二雄さん(現東京大学海洋研究所国際沿岸海洋研究センター教授)と一緒に航海の番頭役、つまり研究航海を切り盛りする世話役であり雑用係を務めました。全国の共同研究者に連絡をとり、白い海図に調査測線を引く。研究機材の確認・調査を行い、航海中の作業班編成を考える。海に出てからは、海況に合わせて研究計画を調整する。その一方で、乗船研究者の健康にも気を配る。航海のあらゆることに関わり、コーディネートする能力が問われる役目です。

それまでのウナギ航海の航跡図を振り返ると、広い海の中をウナギの仔魚を求めてさまよい歩くといった無秩序なものでしたが、大竹さんと僕は学部時代に同じ生理学研究室出身だったものですから、ラボ実験の感覚でネガティブデータも併せてとることのできる碁盤の目状の整然としたグリッドサーベイグリッドサーベイ格子状の調査測線を設け、各線の全ての交点で観測を実施する調査方法。採集の成功、不成功によらず機械的に全ての測点のデータを得る。を採用しました。こうして、フィリピン・ルソン島の東方海域で30mmほどのレプトケファルスを21匹採集すると共に、仔魚の分布するところとしないところの海洋環境をしっかり把握できたのです。

定説をくつがえす

アユの経験から、1986年9月の航海で得られたウナギ仔魚にも耳石の日輪解析を適用しました。すると、80本前後の輪紋が見えます。ここから、仔魚が採れた地点から80日分海流を遡れば産卵場に到達すること、またこれらの仔魚の産卵は6~7月に起こったことがわかりました。それまで親ウナギが川を降る時期から考えて、ウナギは冬に産卵するものとされていましたから、これは意外な結果でした。学会で発表してもなかなか受け入れてはもらえませんでした。アユの「スイッチング・セオリー」の時と同じです。

でもこの結果に基づいて、僕らは次の1991年の調査では、航海を夏に計画しました。それまでのウナギ航海は3月とか12月とか、すべて冬場に実施されていたので、これは大冒険でしたが、なんとこれで10mm前後のレプトケファルスを1000匹近く採集できたんです。その中には、これまでの最小サイズ、全長7.7mmの仔魚も含まれていました。大体生まれて2週間前後のものです。

この成果は、ネイチャーに掲載されました。僕らが見つけた、たくさんのレプトセファルスが表紙を飾っています。投稿を薦めてくれたのは、あのマート・グロスです。ちょうど京都の国際動物行動学会に参加するため来日中でした。当時、僕はウナギの産卵場の研究がネイチャーに載るとは思いもしなかったのですが、「世界に通用する仕事だから」と彼が太鼓判を押してくれました。滞在中のホテルから海洋研の研究室まで来て、論文の英語を丁寧に直してくれました。最後の仕上げの時は、ホテルのカフェテリアでサンドイッチをほおばりながら、奥さんと歌舞伎見物に行く時間を気にしつつ、丁寧にチェックしてくれたんです。彼のおかげで非常に的確で読みやすい論文になりました。本当に感謝しています。

ウナギの耳石<撮影:黒木真理(東京大学総合研究博物館)>

92年のネイチャーの表紙。

「新月仮説」と「海山仮説」

ネイチャーに載ったニホンウナギの産卵場発見の論文には、多くの国内外の研究者から「おめでとう」「よくやった」という祝福の声が届きました。でも中には「卵を見つけたわけではないのだから、産卵場所を発見したというのは早計だ」という意見もあり、これには「う~む、なるほど」と唸ってしまいました。僕らはさらに小さい生まれたての仔魚や卵を求めて調査を続けましたが、その後14年間というもの、これという成果は得られませんでした。

でも、よくよく考えてみると、それは当然だったかもしれません。10万匹の親ウナギが産卵に参加したとしても,受精を成功するために雌雄はごく近くにいなくてはならないので、産み出された直後の卵の占めるスペースは、せいぜい一辺が10mくらいの立方体にすぎません。これは広大な海の中では気が遠くなるようなピンポイントです。おまけにウナギの卵は受精から孵化までがわずか1.5日ですから、この間にそのピンポイントに網をヒットさせなくてはならないのです。産卵後の卵や仔魚は海流によって拡散し、徐々に広範囲に分布するので、時間が経ち、大きな仔魚になるほど採集しやすくなりますが、卵や生まれたての仔魚の採集の成功は、それこそ天文学的な確率といっていいでしょう。

そこで僕らは、産卵場の範囲と産卵のタイミングをさらに絞り込もうと2つの仮説を立てたんです。「新月仮説」と「海山仮説」です。1991年7月に採集した仔魚の耳石を解析したところ、孵化日が5月と6月の2群にはっきり分かれ、それぞれのピークが各月の新月の日にほぼ一致していることがわかりました。ここから、ニホンウナギは適当な時に産卵しているのではなく、「新月」に同期して一斉産卵するのではないかと予測しました。これが新月仮説です。

海山仮説は、これまでの仔魚の分布と体サイズのデータから導きました。仔魚はおよそ北緯15°前後で採れています。また、東経142°以西でたくさんの仔魚が採れており、東に行くほど仔魚のサイズは小さくなってきますが、143°を越えるとパタリと採れなくなります。この付近の北赤道海流はゆっくりと東から西に流れているので、産卵場は北緯15°前後で、東経142°と143°の間であろうと考えたのです。そこには南からスルガ、アラカネ、パスファインダーの3つの海山があります。これらは、水深3000~4000メートルの深海底から頂上が海面下6~40メートルまでそびえ立つ富士山級の巨大な水面下の山々です。この海山域に生じた磁気異常や重力異常を頼りに雌雄の親ウナギは回遊し、広大な海で首尾よく出会うことができるのではないかと考えたのです。しかも、通常この海山域には、塩分フロントと呼ばれる、塩分濃度の大きく異なる二つの水塊の境界が東西方向につくられます。ウナギの仔魚は多くの場合このフロントのすぐ南で採集されているので、北からやってきた親ウナギはこのフロントを南へ越えたとき、産卵場に着いたことを知り、回遊をやめて産卵準備に入るのだろうと考えたのです。

幸運が巡ってきたのは2005年6月です。スルガ海山の西100キロの海域で、体長5ミリ以下の仔魚を採集しました。仔魚の耳石の外縁には2本の輪紋が見られ、ふ化後二日目の仔魚であることが確認できました。2009年5月には、ついに待望のウナギ卵を西マリアナ海嶺南端部で採集しました。その地点はちょうど塩分フロントが海嶺と交叉する部分で、新月の2日前のことでした。海山仮説と新月仮説、さらには塩分フロント仮説のすべてが一度に証明された瞬間でした。

学会で「新月仮説」を発表。

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図1 ニホンウナギの産卵場調査航海の歴史。航海を重ねるごとに調査海域は最初南へ、そして東へと移っていった。得られるウナギ仔魚のサイズも徐々に小さくなっていった。

98年には、マックスプランク研究所の動物行動学者ハンス・フリック博士も小型潜水艇JAGO号をもって参加。白鳳丸ブリッジにて。

2009年5月にはついにニホンウナギの卵を発見。大竹さんと白鳳丸にて。

口径3メートルの網(左)を使って膨大な量のプランクトンサンプルを得る。それを丹念に選別し、透明なウナギの卵や仔魚を探す(中央)。採集後、すぐに船内でDNA解析し、ニホンウナギか否かを確認する(右)。

回遊の進化を辿る

生命現象では「生殖」と「成長」が非常に重要であり、これらを行う場所が別々にあったとしたら、生きものは回遊せざるをえません。これが回遊の起源だと考えています。ウナギは、なぜ数千キロにも及ぶ大回遊をするようになったのか? この問いに答えるには、ニホンウナギの回遊生態の研究だけでは不十分です。現在、世界中には19種のウナギが分布しており、その中で温帯にいるニホンウナギやヨーロッパウナギはむしろ少数派で、分布の中心は熱帯にあります。これら熱帯に暮らすウナギが祖先種に近いのではないかと考えました。

そこで、1994年頃、熱帯ウナギの系統関係を解くプロジェクトを始めました。これは、僕らの研究室として誇れる成果の一つと思っています。こつこつとニホンウナギの産卵場探しをする傍ら、現地に出向いて熱帯ウナギの生態を調査し、標本にして持ち帰って系統解析を行いました。非常に根気と体力のいる仕事でしたが、優秀な学生たちが活躍してくれました。僕は遺伝子解析ができませんから、大学院生の青山潤君(現東京大学特任准教授)に習ってもらいました。彼は世界中を飛び回って当時18種といわれていた全てのウナギの系統関係を解析し、卒業後も研究室に残って学生に遺伝子解析の指導をしてくれました。彼の貢献はとても大きいです。

系統解析の結果、インドネシア・ボルネオ島固有のA. bornensisというウナギが一番起源の古いことがわかりました。このウナギは、ボルネオ島の川とそのすぐ近くにあるセレベス海の産卵場との間で小規模な回遊をしています。ウナギの祖先は、約1億年前、現在のインドネシア付近の海産魚から生まれ、その後世界中に広がったのではないかと考えています。恐らく、祖先はインドネシア付近のセレベス海やスル海など、深い海が陸地近くに迫っている場所で産卵していたのでしょう。たまたま沿岸域や河口域まで流された仔魚が、すでにそこに住み着いていた多くの外敵を避けるためそこを脱出し、川に遡上したのがウナギの回遊のはじまりではないでしょうか。

海の生物の何千キロもの旅を可能にしているのは、海特有の環境にあります。陸上での移動には大変なエネルギーがいりますが、海では浮いてさえいればわずかなエネルギーで移動できます。ウナギの仔魚の体は葉っぱのように扁平で体表面積が大きいんです。これは浮遊適応といって、水中で沈みにくく、うまく海流を使って漂いながら旅をするのに適した体つきなんです。葉っぱのような小さい体が、熱帯から温帯への分散移動を助け、分布域を一気に広げていったのでしょう。しかし、ウナギはその産卵場を容易に熱帯から動かせず、温帯まで分布を広げたものの、産卵は何千キロも回遊して熱帯域へ帰ってこなければならなくなったのでしょう。こうして熱帯ウナギの局所的な小規模回遊から、温帯ウナギの大規模回遊が進化してきたと考えています。小さなウナギの幼生が何千キロもの大回遊の舞台の主役を演じたのです。

95年ボルネオ島にて。タワウの泥水の中で大学院生の青山くんと一緒にウナギを探す(本人:右)。

96年タヒチにて。現地の子供がウナギ取りを手伝ってくれた。子供たち手作りのシダの冠をかぶって青山くんと(本人:右から二人目)。

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図2 ウナギは今からおよそ1億年前に現在のボルネオ島付近の海産魚を起源として世界中に広がったものと推定された。

脱出理論

「動物の旅の始まりは脱出だ」というのが僕の自論です。1982年頃、アユの行動実験をしていた頃からなんとなくそう感じていました。水槽の中に一定の数のアユを入れて次第に温度を上げていくと、水槽いっぱいに魚が広がり、やがて壁面でピョンピョン跳躍する「飛び出し行動」が起きます。これを見ても、始めは「ああ、水温上昇が活動度を上げたんだな」と単純に思っていました。その行動が魚の回遊の引き金に関係する大事なことであると気づき、「脱出理論」を着想したのは、それから18年も経った2000年ごろです。研究者人生のほとんどの間、常に考え続けてきた問いを解く鍵が見つかりました。

生きものは全て刺激に対して正か負の方向へ反応します。例えば、話し手に耳を傾けたり、赤いリンゴに手を伸ばす。海から川へ遡上するアユの場合は、川の上流から流れる水流や落ち込み部で生じる水音が刺激となって、その方向に向かって遡上行動やとびはね行動が起きるんです。水温上昇で起きた水槽中の「飛び出し行動」は、刺激がなくても跳躍という無方向な反応が起きた特殊な例です。これは水温上昇という外部の環境条件が、「動因」と呼ばれる、動物をある行動に駆り立てる心理的要因のレベルを引き上げた結果生じた行動と解釈できます。外部の環境条件や体内の生理条件が悪化することで、その環境から脱出するための行動の動因レベルが高まり,やがて脱出が始まる。これが動物の回遊の最初のプロセスであり、回遊行動の進化における原初の形ではないかと思っています。つまり、生物が回遊を始めた最初の理由は、それまでの慣れ親しんだ環境に何らかの不都合が生じ、そこから「脱出」せざるを得なくなったためと考えています。まずは、その環境から飛び出る、これこそ回遊の第一歩で、正確に元いた場所に帰るための航海能力や回帰能力などは、後から適応的に獲得されてきたものだと思います。

2007年に「脱出理論」をカナダの学会で発表しました。これは、86年にアユの「スイッチング・セオリー」を発表した、回遊魚の国際シンポジウムの第2回目だったのです。おもしろい偶然ですよね。このときは学生たちにも海外での発表経験をさせたいと思い、研究室のメンバーを10人ほど連れて行きました。僕は学生にはなるべく海外に行って経験を積むように薦めています。自分が留学できなかったから余計にそう思うんですね。

「脱出理論」は、人間の歴史にも当てはめることができると思っています。例えば、ボートピープルの例もそうですし、ゲルマン民族の大移動もフン族の圧迫がストレスになって起こったものです。さらに遡れば、人類のアフリカ脱出もそうかもしれない。700万年前にアフリカに誕生して、50万年前までずっとそこにいたわけですが、個体数が増えすぎたのか、気候変動で食糧難になったのか、何らかの不都合が引き金になり、アフリカから飛び出したと考えることができるかもしれませんね。

20年ぶりのシンポジウム。カナダ・ハリファックスにて。研究室のメンバーと一緒に。

基礎研究からの展開

これまで研究室から大学院生が50人くらい卒業しました。最近はウナギの基礎研究を全てやりつくそうと、学生1人1人に、ウナギのライフサイクルのどこか一部を研究テーマとして取り組んでもらっています。魚卵を研究する学生、レプトセファルスの分布と成長を調べる学生、シラスウナギの接岸生態を研究する学生というように、ウナギの生活史はほぼすべて網羅できてきました。しかし、産卵場までの親ウナギの回遊ルートが未解明です。単独で移動するのか、群れで移動するのかもまだわかっていません。現在、親ウナギにポップアップ・タグと呼ばれる小型のデータロガー発信器を装着して放流し、産卵回遊中の行動を追跡しています。データからは昼夜のウナギの行動の違いも見えます。夜は表層近く200m付近にいるけど、朝になると600m層にまで潜るんですよ。なぜこんな行動をとるのか不思議ですよね。昼間は表層付近にいるサメやマグロを避けて深みにいて、夜間は成熟を促進させるために暖かい浅層に浮上するのではないかと思われていますが、まだよくわかっていません。しかし発信器は小型化が進んで魚への負担も少なくなり、あと3年ほどで大体の回遊ルートがわかるはずです。

基礎研究と応用研究をつなげることも大事だと思います。基礎と応用は表裏一体です。応用的なセンスがあったほうが、基礎研究の発展性は高いと思いますし、基礎に立脚していない応用研究は脆弱です。ウナギの研究では両者が平行して進められています。産卵場調査は、海洋学や海洋生物学の1課題であり、基礎のフィールドサイエンスですが、その成果はウナギの資源変動が起こるメカニズムの解明に大いに役立ちます。エルニーニョや台風が漁獲量にどう影響するかというような予測は、私たちの実生活に大きくつながります。さらに卵の発見はウナギの完全養殖の実現にも貢献します。天然の卵や親魚の状態は人工のそのお手本になります。一方で完全養殖の開発研究の過程で得られた様々な知見は産卵場探しのフィールドワークの指針として活用されました。ウナギの研究は基礎と応用がうまく連携して進んだ好例なのです。

ポップアップタグをつけた親ウナギを海に放流し、産卵回遊中の遊泳水深や回遊ルートを調べる。

ウナギ学の集大成

日本人はウナギが大好きです。ウナギと人間との関わりの歴史は古く、日本では万葉集、浮世絵、落語など文化の中にもしばしば現れます。ポリネシアやヨーロッパにもウナギの民話があります。シラス漁業や養鰻業は経済行為であり、社会と密接につながっていますよね。ウナギという鏡に映して、さまざまな人間の歴史や文化を語ることができます。

実は今、ウナギにまつわる全てを集めた総合展覧会が東大の総合研究博物館で企画されています。海洋研も全面的に協力します。これまで我が国がやってきたウナギ研究の集大成ともいえます。ウナギの自然科学、人文科学、そして社会科学の3分野を融合した「ウナギの総合展覧会」。大学時代に学んでみたいと思ったことのある南の島々の文化人類学にもつながりますし、趣味と実益を兼ねた知的な遊びともいえます。今年の7月から10月まで東京で開催し、その後フランス、デンマーク、オランダ、台湾と世界中を回り、日本に帰ってくるのは2014年の予定です。今からとても楽しみにしています。世界中の人々にウナギの自然科学の発展ぶり、我が国が誇るウナギ文化、そしてウナギ資源の世界的な危機と保全について、じっくり見て、考えてもらえれば有り難いです。

研究室には調査航海で採集された様々な発育段階のウナギの仔魚と世界全19種類のウナギの標本が揃っている。目下の楽しみは、東大総合研究博物館で2011年7月公開予定の「ウナギ」展の企画と準備。これらの標本も企画展にて展示予定。