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ラボ日記

研究セクターのスタッフが、日常で思ったことや実験の現場の様子を紹介します。
月二回、スタッフが交替で更新しています。

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【細胞の社会】

橋本主税

 「細胞の社会」という言葉があります。岡田前館長の著作にも同じタイトルのものがありました。人間社会と同様に、同じではない個性が集まって細胞が集団を作るとき、個々の細胞の個性に依存することなく一つの「社会」として機能を始めることを表現した言葉だと思います。今までの「遺伝子が支配する生命観」の解釈では、同じ環境にいる細胞たちは全て同じ性格を持たなければ説明できませんでした。あるホルモンや成長因子によって特定の器官が形作られる場合に、そこに存在してそのホルモンの影響を受け、その器官の形成に関わる細胞たちは、同じホルモンや成長因子の制御を同じように受けなければ説明できないからです。でも実際には、同じ組織にいて隣り合う細胞同士が同じであるということはほとんどありません。均一の系として解析される「培養細胞」を見ても同じことが言えます。一枚の培養皿に入っている細胞は全て均質なものであるはずなのですが、実はそれぞれ非常に個性豊かなのです。特定の組織や器官を形作る細胞たちや培養細胞株などの基本的性質は同じ環境下にいる以上は同じでなくてはいけませんが、遺伝子の発現の水準にまで目を向けると実はみんなばらばらなのです。なのに、やはり集団としてはその器官を形作るために機能する訳で、まさに人間や動物の社会行動と似たようなことが個体発生過程の細胞達にも起こっているのです。

 ある器官の形作りのために細胞たちは「仲間」を作ります。基本的には同じような性格になって、それらが集まって仲間を形成するわけです。ただ、それらが「仲間」となるためには別の性格を持った細胞たちと明確に区別されなければなりません。「仲間以外」が周りに存在して初めて「仲間」が生じるからです。「肝臓」は、「肝臓ではないその他のもの」が存在するから「肝臓」なのです。

 では、この「仲間」と「仲間以外」を分けている実体はどこにあるのでしょうか?現代発生学ではそれを「分子」に求めました。しかし仲間内にも遺伝子のレベルではかなりの多様性があることが分かり、また「仲間」であるにも関わらずその仲間の指標である分子を持たないものも存在することが知られると、「仲間」を規定する実体を分子に求めることが果して正しいことなのか分からなくなります。分子生物学や生化学など遺伝子や分子を取り扱う学問は統計学的処理を必要とします。個々の細胞などを個別に考えることはこの学問の範疇ではないのです。個々の細胞の振舞いを考えることなく、「肝臓を作るにはどのような遺伝子の働きが全体として必要なのか?」について最大公約数的解析をします。それで多大な成果を上げているわけですが、でも、それ以外の性格を持つ細胞も集まって「それでも肝臓」が形作られる仕組みを説明できません。社会という形態は、個(分子・遺伝子・細胞)のレベルでのゆらぎを吸収してなお「形」として機能するもののことなのではないでしょうか?

 遺伝子を操作する技術が進歩し、狙った遺伝子の働きだけを壊したり、別の遺伝子を新たに注入したりできるようになりました。しかし、いまのところどんな操作を加えても「種」を変えることはできません。カエルはどんな遺伝子操作を加えようがカエルのまま、ネズミもネズミのままだということです。ネズミにショウジョウバエの遺伝子を入れると、その遺伝子は「ネズミの遺伝子」として働きます。これだけで全てを論じることはできませんが、やはり単一の遺伝子というものは「実体なき実体」であり、それらがある関係性を形作ったときに初めて意味を持つ「実体」として存在し得るのかもしれません。ネズミの中に存在する「実体」に組み込まれたハエの遺伝子は、遺伝子としてのアイデンティティに依存するのではなく、その実体のアイデンティティに規定されて意味を成すのでしょう。では、「ハエの実体」をまるごとネズミに移してやるとどうなるのでしょう?興味は尽きません。

発生生物学という学問分野は、生物が卵から育っていく過程で細胞同士が仲間を作り、形を作っていく機構を解析する学問です。これからの発生生物学の研究には、分子や遺伝子による機械論的な見方と同時に、生き物は細胞一つ一つが形成する社会であると見なして社会学や経済学あるいは行動学の概念が導入されなくてはならないかもしれません。そう考えると、基本的に「生き物には混沌としていて欲しい」あるいは「分子や遺伝子で割りきれて欲しくない」とひねくれた考えを持つ私にとっては、これからますます混沌とした生物学の研究が進みそうでわくわくします。


[脳の形はどうやってできるのかラボ 研究員 橋本主税]

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