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中村桂子のちょっと一言

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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“そこにいる”という感覚がなくなるとしたら恐い

2019年2月1日

小さな頃からスマホに向き合う日常にどこか異和感をもつのはなぜかしら。よくわからずにきましたが、リービ英雄さんのエッセイを読んでいてふと感じたことがあります。

リービさんはプリンストン大学で「日本文学」を学び、卒業後は教える立場としてそこで過されました。その間東京との間を往復しながら日本文学の作家として活躍されていたのです。そんな中で33歳の時(1983年)、カリフォルニアにあるスタンフォード大学から、半年間だけ日本文学を教え、残りの半年は日本に住んで実際の「日本文学」の場にいるという好条件での誘いがありました。西海岸の方が日本との往復にも便利ですし、積極的に引き受けました。初めてのカリフォルニアです。

そこで、リービさん自身の言葉を借りれば「ネイチャー・ショック」を受けたのでした。広々とした雲一つないコバルト色の美しい空。これが、『一週間いても変わらない。一ヶ月いても同じである。一つの「季節」に相当する時間が終っても、空はぼくが来た日からほとんど何の変化も見せない。』のです。そして「日本古典文学」の授業が始まります。和歌を教え始めると、窓の外のコバルト色の空が気になり、『「古今集」になるとコッケイな気持になって、「枕草子」まで来ると、まわりの現実とテキストのズレによって心の中は一種のパニック状態になった。』とあります。『春はあげぼの?いいえ、毎日はあけぼの、年中はあけぼの。』優秀な学生であることは確かなのだけれど、そこには情感などみじんもありません。そしてリービさんは『どこでもいいから四季のある「ノーマル」な国にもどりたくなったのである。』となり、スタンフォードを退職します。

話はちょっと変わって、NHKラジオで「世界のお天気」という放送があるのを御存知ですか。「ソウル曇り。最低気温マイナス1℃、最高気温4℃」と始まりアジア、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアにある都市のお天気が続きます。暑かったり、寒かったり、時に雪が降ったり・・・。ただ、ロスアンゼルスはほとんど晴、気温は一年中15℃〜25℃くらいです。聞きながら、いいなあと思っていましたが、ちょっと待てよです。この気候に対してリービさんは『「カルチャー・ショック」より深刻な一つの虚無感を覚えてしまった。』わけですから。

ここから先は私が考えたことです。シリコン・ヴァレーがカリフォルニアにあるのは偶然ではないのではないか。アップル、インテル、Google、Facebook、Yahoo、などのIT企業の始まりの地であり、今も世界をリードしています。多くの人の憧れの地です。とくに若い人の。でもそこは、リービさんが虚無感に襲われ、季節の区別なんて歴史でありそんなものはとっくに卒業したとする人が暮らしていると感じた土地です。そこが生み出したのが今のIT社会であり、それが世界を席巻しているのです。生れた時からスマホに向き合っていて大丈夫かしらという私のなんとない不安は、皆がカリフォルニア型になることへの不安ではないかと思えてきました。

エッセイには、次のような話が紹介されています。カリフォルニアで育ちながらそこから逃げるようにパリに移り住んだガートルード・スタインは、久しぶりに帰ったカリフォルニアで“When you get there, there’s no there there.”と言ったとのこと。「そこにはそこがない。」リービさんが、「そこに着いても、そこには“そこにいる”、あるいは“どこかにいる”という感覚はまったくない」と解説して下さっています。これが近代文明の次の生き方になるとしたらやはり逃げ出したい。私もG・スタインやリービさんと同じ気持です。世界中が“there”のない社会になるのは恐いですし、もっと恐いのは、ほとんどの人が自分がそのような変化をしていることに気づいていないことです。

急いでつけ加えます。カリフォルニアを全否定しているわけではありません。事実退職した高齢者が暮らしたい場所としてあげられますし。でも「陰翳礼賛」のない社会になるのはと思うわけです。

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