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中村桂子のちょっと一言

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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「格差」は憂うつです。

2014年12月1日

これまでも言葉のことをあれこれ書いてきました。言葉は、私たち人間が他の生きものとは違う文化・文明をつくり出してきた元になっているもので、とても興味深く大切なものです。でも言葉の中には、聞いただけでイヤな感じのするものも少なくありません。最近、聞くと憂うつになるのが「格差社会」です。

生命誌は生きものたちの共通性と多様性を基本に置いています。多様であることが生きものの世界を支えている・・・多様とはすなわち差があることです。バクテリアもいればキノコもある。チョウもいればクモもいる。そしてヒトも。調べれば調べるほどそれぞれの生き方があって、驚いたり感心したりすることばかりです。差があることに生きることの基本があるのです。生命誌を応援して下さっていた詩人のまど・みちおさんが、御自身で一番好きと言っていらした詩があります。

ぼくが ここに

ぼくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない

もしも ゾウが ここに いるならば
そのゾウだけ
マメが いるならば
その一つぶの マメだけ
しか ここに いることは できない

ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに
いるときにも

その「いること」こそが
なににも まして
すばらしいこと として

"いること"を大切にする。これを人間の社会のシステムにつなげるのはなかなか難しいのですが、日本はそれを上手にやっていた社会でした。たとえば、「一億総中流」という言葉はそれです。中流という言葉には、皆んなほどほどであり、基本的には同じという気持があります。もちろんそこには差はあります。収入だって幅があります。でもそれは、まあそのくらいはあるだろうという幅です。皆んな仲間として一緒に生きていこうという社会です。意図的に「格差」を作り、株価で社会のありようを決めるなどというやり方は、"いること"を大切にしていません。「差」と「格差」はまったく違うものです。格差社会は生きる実感に欠けますし、品がありません。聞いただけで憂うつになるこの言葉を消すように努めなければいけませんね。

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