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中村桂子のちょっと一言

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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【あっこれだ! と思ったこと】

2009.3.16 

中村桂子館長
 素晴らしいスピーチってあるものですね。この間はオバマ大統領の就任演説で考えさせられたことを書きましたが、今度は村上春樹さんの「エルサレム賞受賞スピーチ」です。これもさまざまなところで紹介されていますので、それぞれの気持で受けとめられたと思います。私の場合、とても大きなことを教えられ、気づかされました。20年ほど前に「生命誌研究館」という言葉で本当にやりたいことが見えた時に続いて二度目の得心です。
 全文に一言、一言意味があるのです。とくに入りは見事。でも長くなりますので省略です。“あっそうだったんだ” につながるところだけを取り上げます。ただ、その前に一カ所だけどうしてもと思うところがあります。受賞を断らなかったことについて、「離れていようとするのではなく、ここへ来ることを選びました。見ないようにするのではなく、自分の目で見ることを選びました。だんまりを決め込むよりここで話すことを選びました」。イスラエルの現状から受賞を辞退するようにという声もあり、かなり考えたのでしょう。でも本当にここで話すことに意味があったと思いますし、物事に対する基本姿勢として、そうでありたいと思います。そして本命は、「ここに高くそびえる壁と、壁にぶつかると壊れてしまう卵があるとすると、私はいつでも卵の側に立ちます。たとえどんなに壁が正しくて、卵が間違っているとしても。私はつねに、卵に寄り添います」という一節です。みごとですね。壁はシステム、卵は魂であり精神をもつ人間です。「小説家が書き続けることに、ただ一つの正しい理由があるとすれば、それは個の尊厳を掬い上げ、その生に光をあてることです」と言っています。
 ここから先は私のことです。生命科学が科学技術に巻き込まれ、更には経済のためにあるかのように言われることに疑問を感じ、悩んだ末に生命誌を始めた時、「科学技術と科学は違う、科学は文化だ」と考えたのでした。しかしその後、科学を文化と言い、科学と社会というテーマでサイエンス・コミュニケーションの大切さを語るという流れが生まれ、かなりの予算がつくようになりました。そこで多くの人々が行っていることが、私の気持にそぐわず、モヤモヤしていました。「科学は文化である」と思った時、私が求めていたものはこれではないという気持です。そのモヤモヤが解けたのです。「文化であるということは壁ではなく卵の側にあるということなのだ」と。科学技術が悪いと思っているわけではないのに科学技術に組み込まれることに抵抗感があったのは、それが壁の立場で進められているからだったのです。そこで、「壁ではないぞ」という意思表示として「科学は文化」と言ってみたのですが、実は今の社会では科学も壁の立場で進められており、“いつだって卵” という意味での文化にはなっていないのです。どこか押しつけがましい、どこか正しさを主張する、・・・・そしてどこかで役に立つとか言う・・・・役に立つことも大事ですが、まず卵に寄り添うことです。
 このような気持は昨年亡くなったお父様から受け継いだものであると語った後の結語。長くなりますけれど、やはり引用したいと思います(訳文は週刊朝日によりました)。

 「今日、私がみなさんに伝えたいことはひとつです。それは、私たちの誰もが、国籍や人種や宗教の違いを超えて、人間であるということです。固い壁、すなわちシステムというものに直面している、脆い卵だということです。
 どう見たって、私たちには勝ち目がありません。壁はあまりにも高く、強く、そして冷たい。私たちに勝てる見込みがあるとすれば、互いの個性を、つまり自分自身も他者も互いにたったひとりのかけがえのない精神を持つ者であると認め合い、互いのこころを結べば暖かさを得られると信じることによってのみ、それは可能になるのです。
 このことを少し立ち止まって考えてみてください。私たち一人ひとりに、しっかりと存在する精神が宿っているのです。そのようなものは、システムにはありません。私たちは、システムに搾取されてはいけません。システムを勝手に暴走させてはいけません。システムが私たちを作ったのではありません。私たちがシステムを作ったのです。
 私が伝えたかったのは以上です。」

 オバマ演説は見事だと思いながら、そこに自分を置くことはできませんでした。政治は私のやりたいこと、できることではないからです。一方、村上さんのスピーチは、まさに文化、私が今やりたいと思っていることです。卵に寄り添って生きる決心がなければ生きものの科学を進めてはいけないと言ってもいいのではないでしょうか。

 【中村桂子】


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