中村桂子のちょっと一言
中村桂子のちょっと一言
館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。
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2007.2.1 

【湯川秀樹先生のラストメッセージ】
 
中村桂子館長
 2007年1月23日。1週間ほど前のこの日が何の日かご存じでしょうか。日本で初めてノーベル物理学賞を受賞なさった湯川秀樹博士の生誕100年です。1949年のノーベル賞受賞は、第二次世界大戦の敗戦から立ち直ろうとしていた日本人を明るい気持にさせてくれました。実はその後、湯川先生の京大の同級生で、同じようにノーベル物理学賞を受賞なさった朝永振一郎博士のお誕生日が1906年3月31日。そこで京大では、この3月までをお二人の生誕百年記念年度としてさまざまな行事を行っています。昨年は1月27日生れのモーツァルトの生誕250年を祝う催しがたくさんありましたが、湯川、朝永両先生の100年も京大だけでなく、もっと広い範囲での活動があってもよいのではないかと思います。これこそすばらしい科学者を知るよい機会ですから。私は幸い、湯川先生、朝永先生共に、お人柄に触れる機会を持つことのできた世代です。恩師の一人渡辺格先生が京大ウイルス研教授になられ、私も修士二年生として、そこで研究をしていました。その頃湯川先生が分子生物学に強い関心を抱かれ、渡辺先生が開かれる生物学のシンポジウムやセミナーに出席していらっしゃったのです。学生として参加していた私に、湯川先生がDNAのことなどお聞きになる。若いので、先生方より聞きやすかったのでしょう。朝永先生は、もう一人の恩師江上不二夫先生の創設された生命科学研究所の顧問をして下さいました。朝永先生も生物学への関心は強く、ここでもよく質問を受けました。お二人共、ポソポソっとお話になる静かな優しい方でしたが(学問には厳しい方だったのでしょうが異分野でしたからそこは)、言葉の端々に学者としての大きさと輝きが感じられ、惹きつけられました。
 時代は変り、今では学者という言葉も消えつゝあるような感じで、これでいいのかなあと思います。昨年末、NHKで「ラストメッセージ」というシリーズの一つに湯川先生が登場されました。“核なき世界を”というテーマです。外向きの性格ではなく研究が好きな先生が核兵器廃絶運動を始められたのは、1954年の第五福竜丸の被爆がきっかけとのことです。1955年には、科学界のリーダーの一人としてアインシュタイン=ラッセル宣言(核廃棄を訴えるもの)に署名、1957年から開かれたパグウォッシュ会議でも活躍されます。これには朝永先生も参加していらっしゃいます。冷戦の時代、核抑止論を根拠に米ソ核開発競争の続く中、御自身の学問を基盤にして、核兵器は人類と共存なし得るものではないという信念を抱かれ、「核廃絶の道は必ず存在する。それを探る人間の叡智を」と訴え続ける湯川先生。晩年がんに侵される中で訴えられるお姿には、強烈なメッセージがこめられていて映像を見るだけで胸が潰れる思いでした。でも実社会は何も動かなかったどころか、状況は悪化していくのですから辛くなります。「科学者の社会的責任」。この言葉がとても重く響きました。昨今よく聞かれる説明責任などとはまったく重みが違います。責任という言葉は、このような時にこそ使うものなのです。サイエンス・コミュニケーション、アカウンタビリティ。カタカナ言葉で言われ、やや流行にもなっているように見える社会との関わり方を見直さなければいけないと思わせる強いラストメッセージでした。


 【中村桂子】


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