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中村桂子のちょっと一言

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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【「美しい」がわかる人、わからない人】

2006.2.15 

中村桂子館長
 昨年末に、来年は「美しくないことをしない」年にしたいと書きました。それに共感する声をいくつかいただき、お仲間がいて下さることを心強く思っています。
 ところで、昨日のJRの中での体験です。たまたま優先席の前に立ちました。その車両では、「このお席を必要とされる方があります」「優先席付近では携帯電話の電源をお切り下さい」というおなじみのメッセージが窓ガラスに大きく書いてありました。その席に高校生と思われる女の子とそのお母さんが坐って、それぞれが携帯電話の画面を見つめ、せっせと指を動かしているのです。優先席とは言っても、附近に目立ってそれを必要としそうな人がいない限り、このような親子が坐っても悪くないでしょう。でも、自分達が坐っているのは優先席であるという意識は持っていなければいけないと思うのです。つまり、周囲との関係の中に自分を置くということです。ですから、携帯電話を使い始めた途端に、この親子は美しくない存在になってしまったわけです。後ろに大きな字で「電源を切って下さい」と書いてあるところで、せっせと指を動かしている姿は、美しくありません。折角親子でのお出かけなら、二人の会話を楽しんだらよいのにと、つい余計なことまで考えてしまいました。
 そこで、橋本治著『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(ちくま新書)を開いてみました。最近の流行に乗るなら、この問いへの答えを探すには、美しいものを見た時に、脳がどう活性化されるかを測定するという話になりそうです。もちろんこの著者はそんなところへは行きません。私も、脳内のどこかで糖が消費されていることが測定値として出てくると、脳が素晴らしいはたらきをしているかのように言い、更にはそれが人間としてすばらしいことであるように言う風潮に、ちょっと「?」と思っているので、この著者がどう話を進めるかに興味を持ったのです。
 まず著者は、「わかる」を知るためにわからない人の特性を探ります。生物学でも、ある機能を知りたいと思ったら、その機能をもたない変異株を調べるのは常道ですから、そこから攻めるのは面白いと思いました。ところで、著者は、“「美しい」が分からない人は、理性的で合理的で意志的で主体的であることが好きで、それゆえに『美しい』が分からない人になる”と言うのです。思いもよらないことを言われて、正直、なぜ?と思いました。理性、合理、意志、主体。どれも悪くないではありませんか。それがあると、なぜ美しいがわからないのか。説明を聞きましょう。
 “美しいと思うと、お!となって思考停止、判断停止をする。理性、合理、意志、主体を好む人は、外からの力で判断停止になるのはいやだから、美しいと思う状態を排除することになる。したがって美しいが分からないままになる。”これが説明です。別の言い方をするなら、理性、合理というタイプの人は、「分かることを分かる」理解能力はあるけれど「分からないことを分かる」類推能力がない人であるというわけです。
わけのわからないことを言っているなぁ。やはり脳の活動測定の方がわかりやすいし、役に立つと思うよという反論を抱く人に対しては、著者はこう答えます。
 “「美しい」は直接的にはなんの役にも立たない発見です。役に立たないものだから、美しいなんてことは分からなくてもいいということにもなります。・・・・しかし、「美しい」には重大な役割があります。それは「自分とは直接に関わりのない他者」を発見することです。「美しい」がそうした言葉である以上、これを捨ててしまうと一切の存在が無意味になります。存在していても「存在していない」と同じになって、この世に存在するのは、「自分の都合だけを理解する自分一人」になってしまいます。「美しい」はその程度のもので直接的には「何の役にも立たないもの」なのです。”
どう受けとめられましたか。相手の都合がわからない、つまり周囲に配慮のできない親子の様子を見て、美しくないと思った私としては、その間に「なんの役にも立たない」という言葉をはさんでの説明を、なるほどと思いながら読んだのですが。

 
 
 【中村桂子】


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