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中村桂子のちょっと一言

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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【動詞で考える生活世界】

2005.10.3 

中村桂子館長
 先回からの続きで、またわからないところに行ってしまうかもしれません。「生命」を巡ってウロウロする話です。先回、「生きている」と「生きる」という言葉で終わりました。
 実は最近考えていることの一つに“動詞で考える”ということがあるのです。昨年書いた「ゲノムが語る生命」(集英社文庫)も章立てをすべて動詞にしましたし、季刊「生命誌」でも「愛ずる」「語る」「観る」というように動詞を年間のテーマにしてきました。その理由は、動詞にすることで、物事をていねいに扱うことができるのではないかと考えたからです。
 たとえば、「生命」という言葉、「21世紀は生命科学の時代」だとか「子どもたちに生命の大切さを教えよう」など、重要なこととしてしばしば眼にし、耳にします。けれどもここで言われている「生命」はどのようなものかということがはっきりしません。物事を考える時は、「何」が「どのように」ということが大事です。「何」ということだけを名詞でポンと投げ出すと、それはすでにわかっていることのように受けとめられてしまい、詳細に考えることをせずにすませがちになります。けれども実は、「生命」という聞きなれた言葉も、生命がある状態、具体的にはさまざまな生きものが生きているという状態をよく見ることによって、さまざまな様相で見えてきます。もちろん、生きものの中には人間も含まれるわけですから、さまざまな人がそれぞれの生き方をしているところに「生命」があるわけです。生命科学とか生命を大切にとかいう言葉だけで動いていると、実は「生きている」も「生きる」も見えないまま、勝手な思惑で事が進み、結局生きにくい状況を作ることになりかねないのです。現行の「生命科学」の中には、そのような気配が見えます。今流行の「改革」もそうです。これだけを放り出さずに、どのようにということをていねいに説明しなければいけないでしょう。動詞で考えるということは、別の表現をするなら、日常を対象にすること、生活世界を考えるということだと思っています。
 フッサールが、“自然科学の研究者も含めてこの世界に生きている人間が、実践的と言わず、理論的と言わず、そのすべての問いを向けるのは生活世界にだけなのである。無限に開かれた未知の地平をもつこの世界にだけなのである”と、生活世界こそ知の対象になるものであると語っています。確かにそうなのですが、生活世界に向き合うのは難しいので、つい私たちは、たとえば科学と称して特別の世界だけを理解し、それがすべての理解だと思ってしまいます。それではいけないとフッサールは指摘し、それをしていると学問も人間生活も危機に陥ると言っているわけです。更に彼は、“科学者や教養人は、自然科学という理念の衣(または記号の衣)を「客観的、現実的で真の」自然として生活世界の代理をさせてしまう”と言っています。確かにそうですね。生活世界に向き合うという一見やさしいようで、とても難しいことを「生命誌」はやってみたいのだということに気づき、生命という言葉を動詞にして考えようと思ったわけです。最初に書きましたようにまだウロウロしているところですが。

 
 
 【中村桂子】


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