信濃毎日新聞(7月19日 月曜評論)
 このところ「責任」という言葉が気になっている。最近の例で言えば、参議院選挙である。ここで問題になったのは、改選後の議席数とそれによって自民党の総裁をはじめとする役員が辞任をするかどうかということであった。51議席を確保できるかという中での49議席。新聞は「自民敗北」と大きな見出しをつけたけれど、党の一番の責任者は、まあまあだったんじゃないのという顔で、「責任はない」とのたまった。責任はないという言葉の具体的内容は、総裁、つまり総理は辞任しないということのようで、党内事情もあるのだろう、事はそのまま進んでいる。
 「責任」とは何なのだろう。辞任をするかしないかということなのだろうか。辞任をしないということは、責任を問われないということと同義なのだろうか。御当人は、「責任はない」とおっしゃっているが、本当にそうなのだろうか。そもそも誰に対しての何の責任を問うているのだろうか。政治が大事だとは思っているが、政治のからくりには疎い者としては、その辺りが納得できないまま、ただ問いを重ねるほかない。
 そこで、責任とはなにかという基本を考えてみた。日本語の辞書を引いても「人が引き受けてなすべき任務」とあるだけで具体的にイメージがわかない。こういう場合以外に役に立つのが英語辞典、今回もまさにそうだった。
 responsibility(責任)のresponseは応答。「あることに対して誰かに答えられること、説明できること」とある。政治の場合、ここにある「誰か」は国民だろう。責任をとろうと思ったら、まず、相手に応答しなければいけない。相手の話をよく聞いて、それにまっとうに答えること、これが責任をもつことの始まりなのである。
 ここでちょっと横道にそれ、生物研究の視点を入れるなら、生きものの細胞表面は受容体の集合と言ってもよく、外部からのシグナルを受け止め、それを内部で処理して適切な対応をすることが生命現象の基本だということがわかってきている。生きものとは応答するものと言ってもよい。
 せっかく辞書を開いたので、英語辞典の先も見てみた。次いで、「道徳的に説明可能な行動、理性的な行動がとれること」となっており、これができるには、まず、相手にまっとうに対応しなければならないというわけである。
 これで、最近「責任」という言葉が気になっている理由がわかってきた。本来、話し合いが行われるべき国会や討論会で、人の話をまったく聞かずにすれ違った言葉だけを発するという場面を見せられ続けたので、どこかおかしいと疑問がわいてきたのだ。役職を辞任するかどうかなどということではなく、大事なことに真正面から向き合って、できるだけ多くの人の話をていねいに聞き、よく考えたうえできちんと答えること。これを基本に置くことが責任をとるということであり、特に指導的立場にある人は、責任はないなどと言わずに、常に責任ある態度をとらなければいけないのである。
 ついでに、最近の国会でのやりとりを表現する言葉は何だろうと探してみた。「嘯く(うそぶく)」。とぼけて知らん顔する、偉そうに大げさなことを言うとある。
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