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中村桂子のちょっと一言

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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【コンクリートの時間、木造の時間】

2001.3.15 

 建築家の隈研吾さんが20世紀はコンクリートの時代だったがそれは終わり、木造の時代が始まっていると書いていらっしゃいます。里山の復活という面から木造建築を取り戻したいと願っているので建築家からの発言として関心を抱き、読んで見たら思いがけない指摘がありました。
 「コンクリートは自由と普遍性をもつ。どこでも運べるし、どんな形にもできる。それは独特の質感と重量感を持っている。建築を語る時、形と機能ばかりが注目されてきたが、実はここにあげたことが重要で、いつの間にかコンクリートの質感と重量感が都市を支配することになってしまった」
 明快な指摘ですが、しろうとでもここまではそう思うなという感じがします。非常に面白いと思ったのはその先です。
 コンクリートは初めは液体のようで自由な素材だが、ある日(打設の日だそうです)突然、コチコチに固くなるというのです。「求めていた生活が、確実なもの堅固なものとして実体化され保証される輝かしい記念日だ」とこの日のことを隈さんはこう書いています。そしてこれを、コンクリートの時間と呼びます。その対極にあるのが木造の時間です。
 「木はいつもそこそこ不自由でそこそこ弱く、完成した後も建物に手を加え続けることになる。完成後もそこそこの自由があるのだ」ある日突然でき上り、その後は手を入れられないコンクリートとの違いです。
 20世紀は皆で同じ時を共有しました。電話で話をし、同じテレビを見るというように。それに対して、最近はメールを送っておけば、好きな時に好きな場所で見ればよいということになりました。時間がだらだら流れているともいえます。これと同じように木造の時間も時を区切らず、続いていくというわけです。「これが21世紀型であり、今や都市に見合った防災性などを備えた木造型建築技術が求められる」というのが隈さんの指摘です。
 コンクリートと木造を構造や機能でなく時間という切り口で見た面白さ。私が機械と生命との比較の中で考えきたことと重なることもあって、なるほどと思いました。

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